ジラール・ペルゴ(Girard-Perregaux、フランス語発音: [ʒiʁaʁ pɛʁəɡo]、[Zhi-RAHR Peh-reh-GOH]発音例、GP)は、スイスのラ・ショー=ド=フォンに本社を置く、1791年創業の高級時計メーカーである。
クラシックな意匠とモダンな要素が融合した独自のデザインを纏い、シンプルな3針から複雑機構まで、多彩な[大言壮語的]自社製機械式ムーブメントを搭載したタイムピースを製造している、歴史あるマニュファクチュールとして知られる[1][2]。
概要
1791年に時計職人のジャン=フランソワ・ボット(英語版)がジュネーブで時計製造を開始。そしてボットの工房設立から半世紀以上が過ぎた1852年に、コンスタン・ジラール(英語版)がラ・ショー・ド・フォンに時計工房を開き、1906年にボットの工房を買収・合併したことで、現在のジラール・ペルゴの礎が築かれた。社名が誕生したのは1856年のことであり、コンスタン・ジラールとその妻マリー・ペルゴの2人の姓を組み合わせたものである。
史上初めて腕時計の量産を行い、のちに世界水準となる高精度な時計用クォーツの開発に成功するなど、その長い歴史の中でいくつかの先駆的な発明を成し遂げている。なかでも1867年に開発された、並行にならべた3つのブリッジを備えたトゥールビヨン「スリー・ブリッジ トゥールビヨン」は、その改良されたモデルが1889年のパリ万国博覧会で金賞を獲得し、ジラール・ペルゴの国際的な名声を一挙に高めた。この独創的機構を象徴するアロー型ブリッジのデザインは、現在のジラール・ペルゴのロゴに採用されている。
1970年代にクォーツショックによる経営危機を経験しており、その立て直しを図ったのが、元レーサーのイタリア人実業家、ルイジ・マカルーソ(英語版)である[3]。1980年代から90年代にかけて、マカルーソの指揮によって伝統的なマニュファクチュールへの回帰に歩みを進めたジラール・ペルゴは、同社の時計を愛用していたファッションデザイナーのジョルジオ・アルマーニが広告塔となり、さらに高級スポーツカーメーカーのフェラーリとパートナーシップを締結するなどして、一躍人気ブランドになった。
その後も堅実な機械式時計製造を続けているほか、高級スポーツカーメーカーのアストンマーティンや高級ワインシャトーのシャトー・ラトゥールといった様々な分野の一流メーカーとパートナーシップを締結するなどして、現在の高級時計メーカーとしての地位を確立している。
2011年、ジャンリシャールとともに所属している親会社のソーウィンドグループ(英語版)がフランスのPPRグループ傘下となり[4]、2013年の組織改編によりケリンググループの一ブランドとなったが、2022年、ケリングがソーウィンドグループの株式をパトリック・プルニエCEOらにすべて売却(マネジメント・バイアウト)[5]したのに伴い、改めて独立した。
日本との関係
1860年代、ジラール・ペルゴは国外への輸出に力を注いだが、その際ブランドの代理人を創業者の妻マリー・ペルゴにいた兄弟3人が務めた。そのうちの1人であるフランソワ・ペルゴは、幕末の動乱のさなかである1861年に来日、横浜に商館を置き懐中時計の販売をはじめ、1864年には正規代理店を開設した。すなわち日本に最初に正規輸入されたスイス時計はジラール・ペルゴであり、日本と縁の深いスイス時計ブランドとなっている。
年表
- 1791年 - ジャン=フランソワ・ボット(Jean-François Bautte)が時計を製作。
- 1793年 - "Moulinié & Bautte"をJacques-Dauphin Mouliniéと設立。
- 1804年 - Jean-Gabriel Moynierを共同経営者に迎え"Moulinié, Bautte & Cie"に社名変更。同年に時計専門のBautte社を設立。
- 1837年 - 11月30日にャン=フランソワ・ボット死去、ジャック・ボット(Jacques Bautte)とジャン・サミュエル・ロッセル(Jean Samuel Rossel)が後継者になる。
- 1852年 - コンスタン・ジラール(Constant Girard)がジラールを設立。
- 1854年 - ジラールがマリー・ペルゴ(Marie Perregaux)と結婚。
- 1856年 - ラ・ショー=ド=フォンに、夫婦の姓を組み合わせたジラール・ペルゴを設立。
- 1861年 - マリーの弟フランソワ・ペルゴが横浜に渡来。日本初のスイス時計商館を横浜に開く。
- 1880年以降 - ヴィルヘルム1世から注文を受けドイツ海軍将校用に腕時計を開発(なお、当時腕時計の登場は時期尚早であり、大きく広まるにはいたらなかった)。
- 1889年 - スリー・ゴールド ブリッジ付トゥールビヨン「ラ・エスメラルダ」がパリ万博(第4回)で金賞を獲得。このモデルの機構は現在も腕時計に採用されている。
- 1906年 - ボットを買収・合併。
- 1928年 - ドイツ人時計師オットー・グラエフ(Otto Graef)がジラール・ペルゴの株を買い取る。
- 1930年 - 腕時計の売り上げが懐中時計の売り上げを上回る。
- 1971年 - 高精度な時計用クォーツの開発に成功、スイス発の量産にまで至る。この時計で定められたクォーツ発振器の周波数32,768Hzは、それ以来ほとんどのクォーツ時計で使用されている発振周波数となっている。
- 1975年 - ラグジュアリー・スポーツウォッチの初期の代表作「ロレアート」をクオーツ時計で発売。デザインはイタリアの建築家、アドルフォ・ナタリーニ(イタリア語版)[6](ジェラルド・ジェンタと間違えられることが多い)。
- 1988年 - ルイジ・マカルーソ(Luigi Macaluso)、ソーウィンドグループを設立。
- 1992年 - ルイジ・マカルーソ、社長に就任。
- 1993年 - フェラーリとブランド・ライセンス契約を結ぶ。カヴァッリーノ・ランパンテを刻印したスプリット・セコンド・クロノグラフを限定生産。
- 1999年 - ジュネーブの国際高級時計展(SIHH)に初出展。
- 2004年 - アメリカスカップでBMWオラクル・レーシングチームを後援。フェラーリとのライセンス契約終了。
- 2008年 - マンガ「島耕作」とのコラボレーションを行う。島耕作の愛用時計は「ジラール・ペルゴ ヴィンテージ1945」である。
- 2010年 - ルイジ・マカルーソ死去、息子のステファノ・マカルーソが社長に就任。
- 2011年 - PPR傘下となる。
- 2012年 - オメガ、ブランパンなどの時計メーカーで活動した時計師ドミニク・ロワゾー(英語版)を複雑時計製作チームに迎え入れる[7]が彼は翌2013年に死去した。
- 2013年 - 母体企業の組織改編によりケリング保有企業となる。また、新作発表の場をバーゼル・フェアへと移行。シリコン製の新たな脱進機「コンスタント・エスケープメント」搭載モデルを発表[8]。
- 2016年 - 創業255年記念としてロレアートを限定モデルで発表、反響を呼んだため翌17年からレギュラーとして本格的に復活させる。
- 2018年 - ソーウィンドグループのユリスナルダンCEO、パトリック・プルニエがジラール・ぺルゴCEOを兼任。
- 2019年 - SIHHにて「Earth to sky」のテーマの元に新作を発表。地球儀と天球儀、そしてトゥールビヨンを備えた「コスモス」やブラックとブルーのコンビネーションの「ロレアート アブソルート」などを発表。
- 2022年 - ケリングから独立。
関連項目
脚注
- ^ “玄人がジラール・ペルゴを選ぶ理由。歴史に裏付けられた魅力とは”. webChronos (2021年12月22日). 2024年1月23日閲覧。
- ^ “ブルータス時計ブランド学 Vol.40 〈ジラール・ペルゴ〉”. BRUTUS (2024年2月9日). 2024年1月23日閲覧。
- ^ “ジラール・ペルゴ/ヴィンテージ 1945”. webChronos (2020年10月25日). 2024年1月23日閲覧。
- ^ PPRがソーウインドグループの筆頭株主に[リンク切れ]、ジラール・ペルゴ、2011年7月4日、2013年6月30日閲覧
- ^ これは時計愛好家にとって「幸福な決断」だ! ユリス・ナルダンとジラール・ペルゴのMBO、web Chronos、2022年2月5日、2024年1月15日閲覧
- ^ Why the hate? The curious case of the Girard Perregaux Laureato
- ^ ジラール・ペルゴ with ドミニク・ロワゾー[リンク切れ]、Gressive、2013年6月30日閲覧
- ^ ジラール・ペルゴから「コンスタント・エスケープメント」搭載モデルがデビュー[リンク切れ]、2013年4月19日、2013年6月30日閲覧
外部リンク