初代サックヴィル子爵 ジョージ・サックヴィル・ジャーメイン (英語 : George Sackville Germain, 1st Viscount Sackville PC PC (Ire) 、1716年 1月26日 – 1785年 8月26日 )は、グレートブリテン王国 の軍人、政治家、貴族。アメリカ独立戦争 期にアメリカ担当国務大臣 (在任:1775年 – 1782年)と第一商務卿 (在任:1775年 – 1779年)を務めたことで知られる。1720年から1770年までジョージ・サックヴィル卿 (Lord George Sackville )の儀礼称号 を、1770年から1782年までジョージ・ジャーメイン卿 の儀礼称号を使用した。
生涯
生い立ち
初代ドーセット公爵ライオネル・サックヴィル とエリザベス・コリヤー(Elizabeth Colyear 、1768年6月12日没、ウォルター・フィリップ・コリヤーの娘[ 2] )の息子として[ 3] 、1716年1月26日にヘイマーケット で生まれ、2月23日にセント・マーティン・イン・ザ・フィールズ で洗礼を受けた[ 3] 。洗礼式には国王ジョージ1世 も出席したという[ 3] 。1723年から1731年までウェストミンスター・スクール で教育を受けたのち、1731年にダブリン大学 トリニティ・カレッジ に進学、1734年にアイルランドにおける弁護士資格免許を取得した。また、1733年にB.A. の学位を、1734年7月にM.A. の学位を修得した。アイルランドで教育を受けた理由は父が1731年から1737年までアイルランド総督 を務めたためだった[ 3] 。
オーストリア継承戦争における軍歴
カンバーランド公ウィリアム・オーガスタス 。ジョシュア・レノルズ 画、1759年頃。
1737年7月に大尉として第7乗馬連隊 (英語版 ) に入隊、1740年に第28歩兵連隊 (英語版 ) の中佐に昇進した。1743年4月に連隊がフランドル に派遣されたが、同年6月のデッティンゲンの戦い には参戦しなかった。以降オーストリア継承戦争 の大陸ヨーロッパ 戦役で戦い、1745年5月11日のフォントノワの戦い では連隊の先頭に立って敵陣に切り込み、胸を撃たれて重傷を負うが、その時点では連隊が敵陣深くに侵入していたため、サックヴィルは(自軍の軍営ではなく)フランス軍の軍営に担ぎ込まれた。
1745年ジャコバイト蜂起 勃発の報せが届くと、連隊が本国に召還されたが、このときカンバーランド公ウィリアム・オーガスタス はサックヴィルを失うことを惜しんだという。第28歩兵連隊はアイルランドの守備につくが、サックヴィルは1746年4月9日に第20歩兵連隊 (英語版 ) 隊長に任命され、カロデンの戦い 直後にインヴァネス で連隊と合流した。その後、インヴァネス、ダンディー 駐留を経て1747年夏にフランドルに戻り、翌年にアーヘンの和約 が締結されると連隊とともに本国に戻り、1749年11月に第12竜騎兵連隊 (英語版 ) 隊長に転じ、1750年に第3カラビニアーズ連隊 (英語版 ) 隊長に転じた。
政界入り
父は1731年から1737年までと1751年から1756年までの2期にわたってアイルランド総督 を務めたが[ 3] 、その1期目においてサックヴィルは1733年にポータリントン選挙区 (英語版 ) でアイルランド庶民院 (英語版 ) 議員に当選、以降1760年まで務めた[ 8] 。また、1737年4月23日にアイルランド枢密院 (英語版 ) 秘書官(Clerk of the Council )に任命され、以降1785年まで務めた[ 3] 。父が五港長官 (英語版 ) も兼任していたため、1741年イギリス総選挙 で父の影響力によりドーヴァー選挙区 (英語版 ) でグレートブリテン庶民院 議員に当選した。オーストリア継承戦争でカンバーランド公の部下を務めていたため、議会ではカンバーランド公による軍の指揮が批判されたときに彼を弁護した。
1751年に父がアイルランド総督に再任すると、サックヴィルは1751年9月19日にアイルランド枢密院 (英語版 ) の枢密顧問官に任命され、また1751年から1755年までアイルランド担当大臣 を務めたが、『英国下院史 (英語版 ) 』はこの時期のサックヴィルとアルマー主教 (英語版 ) ジョージ・ストーン (英語版 ) が「アイルランドの実質的な統治者」(the real rulers of the country )になり、野党から激しく攻撃されたとした。ほかにも1750年から1753年までフリーメイソン の一員としてアイルランド・グランドロッジ (英語版 ) のグランドマスターを務めた[ 9] 。
1755年にイングランドに帰国した。この時点ではホレス・ウォルポール がサックヴィルの演説を称え、父が五港長官としての影響力と一家のイースト・グリンステッド選挙区 (英語版 ) における影響力をサックヴィルに委ね、さらに母方の親族と陸軍における働きによりスコットランド政界でも盟友が多かったため、政界においても陸軍においても将来有望とされたが、これは4年後には一時両方とも潰えることとなる。
1754年イギリス総選挙 の後、サックヴィルは初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホールズ から盟友の1人として扱われた。第1次ニューカッスル公爵内閣 期の大ピット とヘンリー・フォックス の権力争いにおいてはフォックスがカンバーランド公を嫌っていたため、サックヴィルが大ピットに接近したが、フォックスもサックヴィルの才能を高く評価して彼の支持を得ようとし、大ピットが罷免されてフォックスが組閣を試みたときにはサックヴィルに国務大臣の座が提示された。しかし、サックヴィルは大ピットを政権から排除することが非現実的であると見抜いてフォックスの打診を辞退、王太子ジョージ (後の国王ジョージ3世)が第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアート への手紙(1757年6月)でサックヴィルの決定を称えた。大ピットはサックヴィルを戦時大臣 に任命しようとして、国王ジョージ2世に拒否されたが、同年10月にカンバーランド公が軍務から引退すると大ピットはサックヴィルを兵站副総監 (英語版 ) に任命した。
七年戦争における軍歴
サン・マロ襲撃
1755年に少将に昇進、1757年に兵站副総監 (英語版 ) に任命され、同年に第3カラビニアーズ連隊隊長から第2(王妃)竜騎衛兵隊 (英語版 ) 隊長に転じた[ 3] 。同1757年にジョン・モードント (英語版 ) 率いるロシュフォール襲撃 に関する調査委員会の委員に任命され、翌年に第3代マールバラ公爵チャールズ・スペンサー 率いるサン・マロ襲撃 で副指揮官の1人を務めた。遠征軍はカンカル で上陸したのちサン・マロ に進軍、いくらかの船舶の積荷を燃やした後サン・マロに戻ったが、フランスの大軍が接近していると知ると急いで乗船した。続いてシェルブール=オクトヴィル に向かうものの、天候が悪かったため艦隊の指揮官リチャード・ハウ は攻撃を行うべきでないと判断、ワイト島 に戻った。
ミンデンの戦い
ミンデンの戦い
ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯子フェルディナント
ワイト島に到着した後、サックヴィルら指揮官はロンドン に戻ったが、マールバラ公爵の軍勢の一部をドイツ戦線への増援に充てることが決定され、マールバラ公爵とサックヴィルは9月にハノーファーに到着した。直後にマールバラ公爵が疫病によりミュンスター で死去すると、サックヴィルがドイツにおけるイギリス陸軍総指揮官に就任した。またサン・マロ襲撃の前の1758年1月27日にグレートブリテン枢密院 の枢密顧問官に任命された[ 12] 。
このとき、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯子フェルディナント が(イギリス側の)連合軍の指揮官を務め、グランビー侯爵ジョン・マナーズ (英語版 ) がサックヴィルの副官を務めたが、サックヴィルが2人と不仲だったとされた。1758年11月にはハノーファー兵から「(サックヴィルの)横柄で皮肉屋の性格に耐えられる外国部隊はいない」の声を挙げられたが、王太子ジョージ (後の国王ジョージ3世)はこれを政治における得点を挙げる好機とみてサックヴィルへの支持を表明、「ドイツの小諸侯がイングランド人指揮官の欠点を見つけると、国王からの指示を待たずにすぐに公表するのは生意気だと思う」(I think it is pretty pert for a little German prince to make public any fault he finds with the English commander, without first waiting for instructions from the King )と述べた。イギリスの国際関係史学者ブレンダン・シムズ (英語版 ) によると、これは反ドイツ派 (英語版 ) や海軍重視派が団結してジョージ2世と政権を攻撃する機会だったが、(海軍を重視した)大ピット がフェルディナント側に立ち、結果的には政権攻撃につながらなかった。このように、一時は大事もなかったようにみえたが、1759年8月1日のミンデンの戦い でついに事件が起こった。
8月1日の夜明け直後、フランス軍が連合軍への攻撃をはじめたが、連合軍左翼のイギリス軍6個連隊とハノーファー軍2個連隊は10時までにフランス騎兵の突撃を4度撃退した上、増援のフランス歩兵をも撃退しており、追撃の好機とみられたため、サックヴィルのもとにはイギリス軍の騎兵を率いて前進する命令が何度も届けられた。しかし、サックヴィルは命令があやふやであるとして、出撃しようとしているグランビー侯爵を止め、フェルディナントに対し命令について確認した。最終的にはイギリス騎兵の前進が命じられたが、これは遅きに失した行動だった。戦闘自体は連合軍の勝利に終わったが、フェルディナントは戦闘についての報告をイギリスに送ったとき、戦闘序列にグランビー侯爵の名前を入れたものの、サックヴィルの名前をわざと外した。サックヴィルがフェルディナントに抗議すると、フェルディナントは「私の命令を文字通りに従っていたら、この日の運命を決定づける好機になったはずです。私はその機会をあなたに与えました。(中略)私の命令が従われず、誰も伝令兵を信じようとしないことに私は見過ごすことができません。」と返答した。
軍法会議
グランビー侯爵ジョン・マナーズ (英語版 ) 。ジョシュア・レノルズ 画、1766年。
サックヴィルはミンデンの戦いの直後に休暇をとり、戦闘から3週間後にはロンドン に戻った。そして、9月10日に戦時大臣 の第2代バリントン子爵ウィリアム・バリントン により兵站副総監、連隊長、ドイツにおけるイギリス軍総指揮官から解任され[ 注釈 1] 、グランビー侯爵が後任の兵站副総監と総指揮官となった。ホレス・ウォルポール によると、サックヴィルは直ちに軍法会議 を求めたが、事件に関連する士官が全員ドイツにいるため不可能であると北部担当国務大臣 の第4代ホルダーネス伯爵ロバート・ダーシー に拒否され、兵站総監 (英語版 ) の初代リゴニア子爵ジョン・リゴニア (英語版 ) に至っては「軍法会議が欲しければドイツにでも向かえ」と皮肉をもって返答したという。最終的には軍法会議が1760年2月3日より行われたが[ 3] 、同年4月5日の判決では戦時規則によりサックヴィルにフェルディナントの命令に従う義務があり、したがってサックヴィルは命令不服従で有罪であるとされた。さらに「陛下に対し、何らかの軍事的な職務をもって奉仕する能力がない」(unfit to serve his majesty in any military capacity whatever )と判定され、陸軍における昇進の道を完全に閉ざされた上、国王ジョージ2世 がサックヴィルを枢密顧問官から除名するよう命じた[ 18] 。
この不遇期について、後年にホレス・ウォルポール が回想したところによると、「イングランドにおいて、人目のつくところでジョージ卿(サックヴィル)の隣に座ったり、彼に話したりする勇気があったのは私、サー・ジョン・アーウィン (英語版 ) 、そしてブランド氏 の3人だけだった」という。スコットランド貴族 の第3代アーガイル公爵アーチボルド・キャンベル (英語版 ) は「彼はスコットランド人の友人です。彼の悪口は言わないようにしましょう」と述べ、王太子ジョージもサックヴィルの処遇を「異例であり、我が国の憲法に違反する」としたが、ウォルポールとサックヴィル自身を除き、だれもがサックヴィルの政治生涯が終わりを告げたと考えた。
政界への復帰
名声の回復
1760年10月、国王ジョージ2世が死去した。サックヴィルは新王ジョージ3世 に謁見して歓迎を受けたが、大ピットなどの閣僚が怒り、結局サックヴィルは以降の謁見を取りやめざるを得ず。1761年イギリス総選挙 でイースト・グリンステッド選挙区 (英語版 ) とハイス選挙区 (英語版 ) の両方で当選、後者の代表として議員を務めることを選択した[ 19] 。そして、1761年12月に庶民院で七年戦争の継戦に関する演説を行って政界に復帰したが、ジョージ3世はサックヴィルに同情的でありながらサックヴィルへの処分を取り消せなかったため、サックヴィルはグレンヴィル内閣 期には野党に回った。一方でほかの野党諸党派から距離を置き、第1次ロッキンガム侯爵内閣 の成立(1765年7月)に際して第2代エグモント伯爵ジョン・パーシヴァル (英語版 ) から賛否を聞かれたときはあくまでも国王への支持に重点を置くとして、盟友のチャールズ・タウンゼンド を庶民院院内総務 に推薦するに留まった。
同年10月10日に父が死去すると[ 3] ノウル・パーク (英語版 ) の地所を継承した。そして、12月1日にアイルランド副大蔵卿 (英語版 ) に任命され、20日に枢密顧問官に復帰したが[ 21] 、ロッキンガム侯爵への支持を決めたわけではなく、印紙法 廃止をめぐっては野党に回り、さらに1766年7月に大ピット(同年にチャタム伯爵 に叙爵)が組閣 すると、大ピットは即座にサックヴィルをアイルランド副大蔵卿から解任した。一方、グレンヴィル内閣期に敵対したジョージ・グレンヴィル とは1766年1月に和解した。以降1768年までチャタム伯爵内閣への攻撃を続けつつ、議会での演説では常に平静を保ち、野党急進派の動きには加わらなかった。
1768年イギリス総選挙 ではハイス選挙区で落選したが[ 22] 、代わりにイースト・グリンステッド選挙区 (英語版 ) で当選、以降1782年に叙爵されるまで同選挙区で再選を続けた。続くグラフトン公爵内閣 期(1768年 – 1770年)では1769年よりジュニアス (英語版 ) という偽名 を使用する作家による、政権を攻撃する文書が次々と出版され、その正体 (英語版 ) について多くの説が唱えられたが、ジュニアスの正体をサックヴィルとする説もサー・ウィリアム・ドレイパー (英語版 ) により唱えられた(ただし、ブリタニカ百科事典第11版 はこの説を誤りだとしている)。また、1769年12月16日にエリザベス・ジャーメイン (英語版 ) が死去すると、サックヴィルはエリザベスの夫初代準男爵サー・ジョン・ジャーメイン (英語版 ) の遺言状[ 注釈 2] に基づきノーサンプトンシャー のドレイトン (英語版 ) 地所を継承、1770年2月16日に私法案 (英語版 ) による議会立法を経て姓をジャーメインに改めた[ 3] 。
ジョンストンとの決闘
ジョージ・ジョンストンの肖像。ジョン・ボグル (英語版 ) 画。
1770年12月、元西フロリダ 総督ジョージ・ジョンストン (英語版 ) との決闘事件が起こった。ジョンストンはもとより口が悪い人物であり、あるとき「自身の名誉は顧みないのになぜ国の名誉を顧みるのか」とジャーメインを批判、ジャーメインが謝罪を求めてジョンストンに拒否されると、2人はハイド・パーク で決闘することになった。ジョンストンの撃った銃弾がジャーメインのピストルの銃身 に当たると、ジャーメインは「(当たったのが)あなた自身でなくてよかった」(I am glad, my lord, it was not yourself )と述べ、これがきっかけとなってジョンストンはジャーメインと和解し、後にジャーメインのふるまいを称賛した。ホレス・ウォルポール は「ジョージ・サックヴィル卿が何だったにせよ、ジョージ・ジャーメイン卿は英雄である」(Lord George Germain is a hero, whatever Lord George Sackville may have been )と評し[ 3] 、『英国下院史 (英語版 ) 』もこの決闘がミンデンの戦いによる「臆病」という悪いイメージを払拭したと評した。
ノース内閣期の平議員として
1770年11月にグレンヴィルが死去すると、今度はロッキンガム侯爵 がジャーメインを自派に引き入れようとし、ジャーメインを1771年1月から2月にかけての自派の会合に招待したが、ジャーメインはロッキンガム派 (英語版 ) の政見に賛成しておらず、1772年末にイギリス東インド会社 の規制をめぐる法案でノース内閣 を支持して野党だったロッキンガム派を失望させた。
その後の2年間には特定の会派に属しなかったが、1773年5月にロバート・クライヴ を擁護するなど議会での演説を精力的に行い、『英国下院史 (英語版 ) 』はこの時期をジャーメインの演説者としての影響力が最も大きかった時期であるとして、中でも1774年初の米州植民地に関する演説を影響力の最も大きい演説とした。
1774年初にはボストン茶会事件 によりボストン港法 (英語版 ) やマサチューセッツ政府法 (英語版 ) などの対策法が可決されたが[ 25] 、ジャーメインは1774年5月2日の演説でこれらの施策を擁護、「近くに座っている名誉ある紳士(ヘンリー・シーモア・コンウェイ )は論争が些細な事柄、すなわち税金に関するものであると述べた。誰がこのような主題に論議するか?ただ税金を諦めるだけでアメリカを沈静化できるならば、[...]その方策に飛びついて、平和、そして母国と植民地の意志疎通を促進すべきではないか?しかし、今税金を諦めたら、[...]私たちはグレートブリテンの憲法から離れることになる。ここで立場を堅持しなければ、私たちのうち最も有能の人でも(本国の)主権を支持する根拠を見つけられないだろう。[...]ここで退いたら、あいつらは全ての権利を主張して、私たちの議会(Parliament )をあいつらの議会(assembly )に取り替えるだろう。」と述べた[ 注釈 3] 。
ノース内閣の大臣として
1774年4月には早くもジャーメインへの官職任命や軍階の復帰が噂されたが、彼は1775年10月にも首相ノース卿 からの「いかなる植民地との紛争を決着させる権限つきで」アメリカに向かうとの打診を断り、11月に招聘を受けてアメリカ担当国務大臣 に就任した。また第一商務卿 にも任命され、1779年まで務めた。
アメリカ担当国務大臣としてアメリカ独立戦争 対策に精力的に関わり、「根気よく募兵計画を立て」(ホレス・ウォルポール の言葉)、「1年目の戦役ですべてを終わらせられると信じ、これによって自身の大臣としての名声を打ち立て」(ベテラン議員ジョージ・セルウィン の言葉)ようとした。また、武力をもって米州植民地を再征服するのではなく植民地の人民の良識を頼るべきとして、ロイヤリスト 部隊の助けを借りた。
しかし、閣僚や陸軍指揮官の大半との折り合いが悪く、ウィリアム・ハウ とジョン・バーゴイン の帰国にあたり2人の作戦失敗を責め、大法官 の第2代バサースト伯爵ヘンリー・バサースト や海軍大臣の第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギュー とも言い争った。バーゴインがサラトガの戦い でアメリカ軍に降伏して、ハウが辞任を申し出るとジャーメインはジョージ3世の信任も失い、ジョージ3世が1778年1月にノース卿に対し、ハウとジャーメインのどちらを引退させるべきか諮問する結果となった。ジャーメインはちょうどこの時期に妻が死去していて悲しんでいたが、結局説得されて留任した。
1778年5月に五港長官 (英語版 ) への転任を申請したが、その一環としての内閣改造が失敗に終わったため結局沙汰止みとなり、アメリカ担当国務大臣に留任した。しかし、ジョージ3世や閣僚に嫌われ、陸軍から不信感を抱かれた状態での留任であり、1779年に第一商務卿から解任されたとき(後任は第5代カーライル伯爵フレデリック・ハワード )も「返す言葉もない」(I have no reply to make )とノース卿に返答した。『英国下院史 (英語版 ) 』はこの「ジャーメインがアメリカにおける軍事作戦への責任を負うものの、陸軍への権威は少なく、海軍への権威は全くなかった」状態をイギリスの敗因の1つとして挙げた。
野党も20年前のミンデンの戦い を取り上げてジャーメインを臆病であるとして攻撃した。また、野党は国務大臣が南部担当 、北部担当 、アメリカ担当 に分かれているという制度の改革を財政改革に結び付け、経費削減を理由にアメリカ担当大臣の廃止を主張したが、これは同時にジャーメインとジョージ3世への嫌がらせにもなった。
戦況がさらに悪化した1780年5月にはヘンリー・シーモア・コンウェイ が対米戦争で講和して、フランス王国 とスペイン王国 との戦争に集中するとの動議を提出、エドマンド・バーク 、チャールズ・ジェームズ・フォックス 、第3代リッチモンド公爵チャールズ・レノックス が賛意を表明したが、ノース内閣 は拒否、ジャーメインはこの動議の影響として「フランスとアメリカはすぐにでも強力な軍勢をニューファンドランド (英語版 ) に送り、私たちの漁場を奪い、海軍の養成所を破壊するだろう。その次はカナダで、西インド諸島 での領有地ももぎ取られる」と述べた。
1781年10月、第2代コーンウォリス伯爵チャールズ・コーンウォリス がヨークタウンの戦い で敗れて降伏するが、ジャーメインは庶民院での発言で引き続きアメリカを維持することの重要性を説き、1782年1月になってもアメリカを失うことは「ヨーロッパ諸国におけるイギリス帝国の地位を破滅させることになる」と戦争を継続すべきとの主張を崩さなかった。
晩年
ジョージ3世がガイ・カールトン を総指揮官として任命しようとするとき、ジャーメインはまたしても辞任を迫られ、1782年2月にそれに応じた。直後の1782年2月11日にグレートブリテン貴族 であるサセックス 州におけるボールブルック男爵 とノーサンプトンシャー におけるドレイトンのサックヴィル子爵 に叙された[ 3] [ 30] 。このとき、ジャーメインが子爵への叙爵を求めた理由は、自身の秘書を務めたことのある初代ウォルシンガム男爵ウィリアム・ド・グレイ 、自身が雇った弁護士初代ラフバラ男爵アレクサンダー・ウェッダーバーン (英語版 ) 、父のアイルランド総督在任期に小姓(page )を務めた初代アマースト男爵ジェフリー・アマースト より高い序列(rank )を保ちたいためだった[ 3] 。この叙爵は貴族院 で大反対を受け、カーマーゼン侯爵フランシス・オズボーン に至っては軍法会議での刑罰が有効のままだったことを理由に、貴族への叙爵に適さないと表明する動議を提出したが、これは否決された。ジャーメインが貴族院に初登院した日にも同様の動議が提出されたが、やはり否決されている。
貴族院では党派性が薄れ、チャールズ・ジェームズ・フォックス の東インド法案に反対して、小ピット の東インド法案 (英語版 ) を支持したものの、アイルランドの通商問題では小ピットに反対した。
1785年8月26日にストーンランド・ロッジ (英語版 ) で病死、息子チャールズ が爵位を継承した[ 3] 。
人物
長身で強健な体つきだった。英国人名事典 によると、ジャーメインは立派な文庫を所有したものの、学問への興味が薄く、ジャーメインの知人は彼が本をほとんど読まなかったと主張した。
公の場では横柄な態度をとりがちであり、七年戦争 でドイツに派遣されたとき、ドイツにおけるイギリス陸軍の総指揮官に就任してからわずか1か月後にはハノーファー兵から「横柄で皮肉屋の性格で、耐えられる外国部隊はいない」の声を挙げられた。
一方で友人の間では感じのよい人とされる。ホレス・ウォルポール は度々ジャーメインの演説の才能を称えた。
家族
1754年8月3日、ダイアナ・サムブルック(Diana Sambrooke 、1778年1月15日没、ジョン・サムブルック (英語版 ) の娘)と結婚[ 3] 、2男3女をもうけた[ 2] 。
ダイアナ(1756年7月8日 – 1814年8月29日) - 1777年11月26日、第2代グランドア伯爵ジョン・クロスビー と結婚
エリザベス - 1781年10月28日、ヘンリー・アーサー・ハーバート (英語版 ) と結婚、2男1女をもうけた[ 32]
チャールズ (1767年 – 1843年) - 第2代サックヴィル子爵、第5代ドーセット公爵
ジョージ(1770年12月7日 – 1836年5月31日) - 1814年12月、ハリエット・ピアース(Harriet Pierce 、1835年4月18日没)と結婚、1女をもうけた
キャロライン(1789年没) - 生涯未婚
注釈
^ サックヴィルはこの解任により多くの収入を失った。具体的には兵站副総監が年1,500ポンド、連隊長が年2,000ポンド、ドイツにおける指揮官職が毎日10ポンドだった。一方、毎年約1,200ポンド相当のアイルランドにおける官職は維持した。
^ ジャーメインの1人目の妻メアリー (旧姓ハワード)が1705年11月に死去したとき、その遺言状に基づきドレイトンなどの遺産(総額は約7万ポンド)がジャーメインに譲られ、ジャーメインは自身の遺言状で遺産を2人目の妻エリザベスに譲った[ 3] 。ジャーメインは死の床でエリザベスに再婚して子をもうけるよう言い、そうしない場合は自身の友人である初代ドーセット公爵の息子に遺産を譲るよう求め、エリザベスもそれを受け入れた[ 24] 。
^ 原文:"An honourable gentleman who sits near says we are disputing about a trifling object, we are disputing about a tax. Who would dispute a moment [...] upon such a subject as this? If the giving up that tax could quiet America [...] should we not fly to the resource and be happy in promoting the peace and good understanding of the mother country and the colonies? But if we give up the tax at this time [...] we depart from the constitution of Great Britain, and I defy the ablest man among us [...] to find ground to stand on for supporting your supremacy if you do not do it upon this ground [...] Depart from this, they will assert every right and substitute their assembly in the place of your Parliament."
出典
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参考文献
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外部リンク