ジェームズ・コンプトン (第3代ノーサンプトン伯爵)第3代ノーサンプトン伯爵ジェームズ・コンプトン(英語: James Compton, 3rd Earl of Northampton FRS、1622年8月19日 – 1681年12月15日)は、清教徒革命(イングランド内戦)から王政復古期のイングランド貴族、軍人、政治家。1630年から1643年までコンプトン卿の儀礼称号を使用した。 生涯第2代ノーサンプトン伯爵スペンサー・コンプトンとメアリー・ボーモント(Mary Beaumont)の長男として、1622年8月19日に生まれた[1]。イートン・カレッジで教育を受けた後[2]、1637年1月21日にケンブリッジ大学クイーンズ・カレッジへの入学許可を獲得、M.A.の学位を修得した[3]。1642年、オックスフォード大学よりD.C.L.の学位を授与された[3]。 1640年にウォリックシャー選挙区で庶民院議員に当選したが[3]、1643年3月19日に父がホップトン・ヒースの戦いで戦死すると爵位を継承した[1]。以降も王党派として第一次イングランド内戦を戦い、同年9月20日の第一次ニューベリーの戦いに参戦、1659年には一時ロンドン塔に投獄された[2]。 イングランド王政復古にあたって、1660年5月29日にチャールズ2世がロンドンに入城するときに同伴し、同年にウォリックシャー統監に任命された[4]。また、1675年から1679年までロンドン塔管理長官を[4]、1677年に下級商務卿を、1673年から1679年まで枢密顧問官を務めた[2]。 1663年5月20日に王立協会フェローに選出され、同協会最初期のフェローの1人だった[2]。 1681年12月15日にキャッスル・アッシュビーで死去[2]、息子ジョージが爵位を継承した[1]。 家族1647年7月5日、イサベラ・サックヴィル(Isabella Sackville、1719年8月22日没、第3代ドーセット伯爵リチャード・サックヴィルの長女)と結婚、1女をもうけた[1]。
その後、第3代カンプデン子爵バプティスト・ノエルの一人娘メアリーと再婚、3男2女をもうけた。
脚注
|