ジョン・ポンソンビー (第4代ベスバラ伯爵)
第4代ベスバラ伯爵ジョン・ウィリアム・ポンソンビー(英: John William Ponsonby, 4th Earl of Bessborough、1781年8月31日 - 1847年5月16日)は、イギリスの政治家、貴族。 経歴1781年8月31日にアイルランド貴族ベスバラ伯爵家の嫡男ダンキャノン子爵フレデリック・ポンソンビー(1793年に爵位を継承)とその妻ヘンリエッタ(初代スペンサー伯爵ジョン・スペンサーの娘)の間の長男として生まれる[2]。 ハーロー校を経てオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学[3]。 1805年にネアズバラ選挙区から初当選してホイッグ党の庶民院議員となったが、翌1806年に議席を失った。1810年にハイアム・フェラーズ選挙区から再び庶民院議員に選出される。以降1834年の叙爵まで選挙区を変えながら庶民院議員に在職する[3]。 1831年にはホイッグ党政権の第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイ内閣で森林長官に就任するとともに枢密顧問官に列した[3]。 1832年の第一次選挙法改正の際には法案を起草した四人委員会(他にジョン・ラッセル卿、初代ダラム男爵ジョン・ラムトン、サー・ジェームズ・グラハム准男爵)の一人となった。四人委員会の中ではダラム男爵が急進的に、彼とグラハムが保守的にふるまうことが期待されていた[4]。 1834年7月に首相が第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラムに代わると内務大臣に転任するとともに連合王国貴族爵位ダンキャノン男爵に叙されて貴族院議員に列したが、同年11月の内閣総辞職で退任した。短期間の保守党政権をはさんで1835年にメルバーン子爵の第2次内閣が発足すると王璽尚書と森林長官として入閣した。王璽尚書は1840年1月まで、森林長官は内閣が総辞職する1841年9月まで務めた[3]。 1844年2月に父が死去し、第4代ベスバラ伯爵位を継承した[3]。 1846年7月にジョン・ラッセル卿の第1次内閣が発足するとアイルランド総督に就任したが、総督在職中の1847年5月16日にダブリン城で死去した[5]。 爵位は長男のジョン・ポンソンビーが継承した[2]。 栄典爵位
1844年2月3日の父の死により以下の爵位を継承した[2]。
家族第10代ウェストモーランド伯爵ジョン・フェインの娘マリア(1787-1834)と結婚。彼女との間に以下の11子を儲けた[2]。
出典
参考文献
外部リンク
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