ジョン・ブリスカー
ジョン・ブリスカー(John Brisker, 1947年6月15日 - 1978年4月失踪, 1985年5月29日死亡宣告)は、アメリカ合衆国の元プロバスケットボール選手。身長196cm、体重95kg。ポジションはスモールフォワード。ABA及びNBAでプレーした。1978年にウガンダで失踪し、生死不明のまま1985年に死亡宣告がなされた。 経歴デトロイト出身。トレド大学を経て、1969年にABAのピッツバーグ・パイパーズでプロデビューした。1年目からチームトップの平均21.0得点と活躍し、オールルーキー1stチームに選ばれた。2年目の1970-71シーズンはリーグ2位の平均29.3得点を叩き出し、オールスターとオールABA2ndチームに選出された。翌1971-72シーズンは49試合の出場に留まったが、平均28.9得点で2年連続のオールスター選出を果たした。シーズン終了後NBAのシアトル・スーパーソニックスに移籍し、3シーズンプレーして1975年に現役引退した。 ABA及びNBAでの成績は、331試合の出場で通算6,847得点(平均20.7得点)であった。ABA平均26.1得点は、リック・バリー、ジュリアス・アービングに次ぐ3位の記録である。 人物全盛期はABAトップクラスの選手だった一方、短気で粗暴な性格でも知られた。当時のチームメイトは彼を「一旦口論になれば銃を持ち出しかねない男」と評している。試合で乱闘を起こして退場させられることも珍しくなく、"NBAのヘビー級チャンピオン"とあだ名された。1971年のデンバー・ロケッツ戦では開始2分でロケッツのアート・ベッカーを肘打ちして退場し、その後もベッカーを追って何度もコートに戻ろうとしたため、警官が出動する騒ぎになった。 失踪1978年3月、ブリスカーは新規輸出入ビジネスを立ち上げると称してウガンダに渡航した。翌1978年4月11日、シアトルに住む交際相手に電話したのを最後に音信不通となり、1985年5月29日に生死不明のまま死亡宣告がなされた。 ブリスカーに何が起こったかは現在も明らかになっていないが、傭兵となって戦死もしくは処刑されたという説が有力である。当時のウガンダはイディ・アミン大統領のもとで恐怖政治が行われており、何らかの政争に巻き込まれた可能性もある。一方でアメリカ国務省はブリスカーのアフリカ渡航を確認できておらず、真相は謎のままである。 個人成績レギュラーシーズン
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