ジョン・カー (初代ロクスバラ公爵)初代ロクスバラ公爵ジョン・カー(英語: John Ker, 1st Duke of Roxburghe, KG PC FRS、1680年4月30日[1] - 1741年2月17日)は、イギリスの貴族。ホイッグに属してスコットランド国務大臣を務めたが、ウォルポール政権には批判的な立場をとった。 生涯第3代ロクスバラ伯爵とマーガレット・ヘイ(初代ツィードデール侯爵ジョン・ヘイの娘)の息子として生まれた[2]。実兄に第4代ロクスバラ伯爵がいる[2]。1696年に兄ロバートが死去すると第5代ロクスバラ伯爵になり、1704年にスコットランド国務大臣に任命された[3]。イングランドとスコットランドの合同を推進したため、1707年にロクスバラ公爵に叙された[2][4]。その後はイングランドとスコットランドが合同してグレートブリテン王国が成立したため、スコットランド貴族の創設はロクスバラ公爵で最後となった[3]。1707年5月28日、王立協会フェローに選出された[5]。 ロクスバラ公爵はスコットランドの貴族代表議員を4会期務め、国王ジョージ1世は彼を枢密院の顧問官とスコットランド玉璽尚書に任命した[3]。1715年ジャコバイト蜂起で政府側に立った後、1716年から1725年までスコットランド国務大臣を務めたが、麦芽税に反対したため首相サー・ロバート・ウォルポールに罷免された[3]。1727年4月、サー・アイザック・ニュートンの葬儀で棺桶に付き添った6人のうちの1人を務めた[6]。1739年10月17日の勅許により創設されたファウンドリング病院の初代総監の1人を務めた。 1741年2月27日に死去した[2][4]。1人息子のロバートが爵位を継承した[2]。 人物
家族1707年頃にメアリー・サヴィル(Mary Savile、第2代ハリファックス侯爵の未亡人、第7代ウィンチルシー伯爵の娘)と結婚して、一人息子をもうけた[2]。
脚注
関連図書
外部リンク
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