ジョン・カーマイケル (第3代ハインドフォード伯爵)第3代ハインドフォード伯爵ジョン・カーマイケル(英語: John Carmichael, 3rd Earl of Hyndford PC KT、1701年3月15日 – 1767年7月19日)は、グレートブリテン王国の貴族、外交官。1710年から1737年までイングリスベリー子爵の儀礼称号を使用した。 生涯第2代ハインドフォード伯爵ジェームズ・カーマイケルとエリザベス・メイトランド(第5代ローダーデイル伯爵ジョン・メイトランドの娘)の息子として、1701年3月15日にエディンバラで生まれた[1]。第3近衛歩兵連隊に入隊し、1733年に大尉に昇進した[1]。1737年8月10日にハインドフォード伯爵の爵位を継承した後、1738年3月14日にスコットランド貴族代表議員に選出され(以降1741年、1747年、1754年、1761年に再選)、1739年と1740年にスコットランド教会総会への勅使を務めた[1]。 1741年にプロイセン王フリードリヒ2世がシュレージエンに侵攻(第一次シュレージエン戦争)すると、ハインドフォード伯爵はプロイセン駐在イギリス特命全権公使としてフリードリヒ2世とオーストリアのマリア・テレジアの調停に派遣され、1742年6月11日のブレスラウ条約締結にこぎつけることに成功した[1]。この功績により、ハインドフォード伯爵は1742年8月29日にシャルロッテンブルクでシッスル勲章を授与された[1]。続いて1744年にロシア帝国に派遣され、交渉を通じてオーストリア継承戦争の講和条約であるアーヘンの和約の締結を早めることに成功した[1]。その後、1749年10月8日にモスクワを離れて帰国、1750年3月29日に枢密顧問官と寝室侍従に任命された[1]。1752年にウィーンに派遣され、1764年に帰国するとスコットランド副提督に任命され、以降はラナークシャーの領地で過ごした[1]。 1767年7月19日に死去、唯一の男子が夭折したためいとこのジョンが爵位を継承した[1]。 家族第3代ハインドフォード伯爵は2度結婚した。1度目の結婚相手はサー・クラウズリー・ショヴェルの娘エリザベスで、2人の間には夭折した1男しか儲けなかった[1]。2度目の結婚相手はジーン・ヴィガー(Jean Vigor、ベンジャミン・ヴィガーの娘)であり、2人の間に子供はいなかった[1]。 脚注
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