ウィリアム・ビーチー による肖像画、1785年。
初代ウッドハウス男爵 ジョン・ウッドハウス (英語 : John Wodehouse, 1st Baron Wodehouse 、1741年 4月4日 – 1834年 5月29日 )は、イギリス の政治家、貴族。1784年から1797年まで庶民院 議員を務めた。
生涯
ポンペオ・バトーニ による肖像画、1764年。
第5代準男爵サー・アーミン・ウッドハウス と妻レティシア(Laetitia 、旧姓ベーコン(Bacon )、1758年4月7日埋葬、第6代準男爵サー・エドマンド・ベーコン の長女[ 1] )の次男として、1741年4月4日に生まれ、25日にセント・ジェームズ・ウェストミンスター (英語版 ) で洗礼を受けた[ 2] 。1748年よりウェストミンスター・スクール で教育を受けた後[ 3] 、1758年2月6日にオックスフォード大学 クライスト・チャーチ に入学[ 4] 、1762年にグランドツアー に出た[ 5] 。
1777年5月31日に父が死去すると、準男爵 位を継承した[ 2] 。父が招聘していたランスロット・ブラウン を1778年に呼び戻して、邸宅キンバリー・ホール(Kimberley Hall )の改築についてアドバイスを求め、さらに裕福な相続人と結婚したため邸宅の増築を進めた[ 6] 。
1784年イギリス総選挙 でははじめチャールズ・タウンゼンド (英語版 ) の支持を受けてグレート・ヤーマス選挙区 (英語版 ) での立候補を表明した[ 3] [ 7] 。しかし、1784年の総選挙はチャールズ・ジェームズ・フォックス と小ピット の戦いとしての性格が強く、フォックスを支持したタウンゼンドは不人気になって、ウッドハウスとともに選挙戦から撤退した[ 7] 。ウッドハウスは代わりに同年4月3日に小ピット支持を表明してノーフォーク選挙区 (英語版 ) で立候補した[ 3] 。ノーフォークでもフォックス=ノース連立内閣 への反対の声が多く、現職議員のうちフォックスの親しい友人だったトマス・クック は落選の危機に陥った[ 8] 。もう1人の現職議員で小ピットを支持した第4代準男爵サー・エドワード・アストリー (英語版 ) はクックと選挙協力したものの、彼を救うには至らず、結局クックが撤退してウッドハウスが当選した[ 8] 。
議会では1788年の摂政法危機(Regency Crisis )で小ピットを支持するなど小ピット派として行動した[ 3] 。1791年4月にはスコットランドにおける審査法 廃止に反対したとされる[ 5] 。ノーフォーク選挙区ではクックが議席奪回を目指しており、アストリーがクックからもウッドハウスからも選挙協力を拒否されたことで1789年春に引退を表明し、1790年イギリス総選挙 でクックとウッドハウスが無投票で当選した[ 9] 。
ウッドハウスは叙爵を目指して、1796年イギリス総選挙 の直前に小ピットからの内諾を受けた[ 5] 。この総選挙ではウッドハウスに選挙戦を挑めるほどの資金がなく、クックの対立候補と協力せず中立にとどまることをクックに許諾した[ 9] 。そのため、立候補を検討していたロバート・ジョン・バクストン (英語版 ) は情勢不利とみて立候補を辞退、クックとウッドハウスは無投票で再選した[ 9] 。そして、ウッドハウスは1797年10月26日にグレートブリテン貴族 であるノーフォーク 州におけるキンバリーのウッドハウス男爵 に叙された[ 2] [ 10] 。ウッドハウスは自身の議席がクックの影響力によりホイッグ党 に奪われることを恐れ、叙爵が行われる前に自身ではなく、妻に男爵位を与えることを暗示的に打診した[ 5] 。小ピットはウッドハウスの後任となる適切な候補者が現れることを期待して、叙爵の特許状発行を遅滞したが、結局候補者は現れず[ 5] 、クックが支持するジェイコブ・ヘンリー・アストリー (英語版 ) が1797年11月に無投票で当選した[ 9] 。また、叙爵にあたり、弟の子孫にも爵位の継承権を与えることを打診したが、これは失敗に終わった[ 5] 。
議員を退任した後、ノーフォークでは1802年 と1806年 の総選挙で長男ジョン が出馬したが、2回ともに落選している[ 9] 。また、13年間の庶民院 議員生涯において、演説の記録は1791年3月に穀物法 をめぐり1度演説したときだけだった[ 3] [ 5] 。
1834年5月29日に死去、長男ジョン が爵位を継承した[ 2] 。『ジェントルマンズ・マガジン (英語版 ) 』の訃報記事では「長い一生においておそらく1人の敵も作らず、他人を故意に傷つけることなく、多くの支出を費やすことなく、人に派手な見せびらかしをせず、周りの人々には常に優しく寛大だった」(he probably passed through a long life without making a single enemy, or giving pain intentionally to any human being, dispensing a large income, not in ostentatious display, but with constant and generous kindness to all within his sphere )と記載された[ 5] 。
家族
1769年3月30日、メイフェア でソフィア・バークリー(Sophia Berkeley 、1747年8月6日 – 1825年4月16日、チャールズ・バークリー閣下の娘)と結婚して[ 2] 、4男3女をもうけた[ 3] 。
ソフィア(1769年12月26日[ 11] – 1852年6月22日) - 生涯未婚[ 1]
ジョン (1771年1月11日 – 1846年5月31日) - 第2代ウッドハウス男爵[ 2]
フィリップ(1773年7月16日 – 1838年1月21日) - 海軍軍人。1814年5月7日、メアリー・ヘイ・キャメロン(Mary Hay Cameron 、1854年10月1日没、チャールズ・キャメロン (英語版 ) の娘)と結婚、子供あり[ 1]
レティシア(1774年[ 11] – 1864年3月3日) - 1811年11月30日、第10代準男爵サー・トマス・メイナード・ヘージルリッグ (1817年4月24日没)と結婚、子供なし。1842年8月15日、F・フィールディング(F. Fielding )と再婚[ 1]
アーミン(1776年3月12日洗礼 – 1853年4月9日) - 聖職者。1815年12月23日、アメリア・ビーチャム=プロクター(Amelia Beauchamp-Proctor 、1874年11月24日没、第2代準男爵サー・トマス・ビーチャム=プロクター の娘)と結婚、子供なし[ 1]
ウィリアム(1782年8月4日 – 1870年4月3日) - 聖職者。1807年2月11日、メアリー・ハッシー(Mary Hussey 、1865年11月29日没、トマス・ハッシー (英語版 ) の娘)と結婚、子供あり[ 1]
フランシス(Frances ) - 夭折[ 11]
出典
^ a b c d e f Burke, Sir Bernard ; Burke, Ashworth P., eds. (1915). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, the Privy Council, Knightage and Companionage (英語) (77th ed.). London: Harrison & Sons. pp. 1145–1147.
^ a b c d e f Cokayne, George Edward ; Doubleday, Herbert Arthur; Howard de Walden, Thomas , eds. (1929). The Complete Peerage, or a history of the House of lords and all its members from the earliest times, volume VII: Husee to Lincolnshire . Vol. 7 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. p. 269.
^ a b c d e f Namier, Sir Lewis (1964). "WODEHOUSE, Sir John, 6th Bt. (1741-1834), of Kimberley, Norf." . In Namier, Sir Lewis ; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年9月4日閲覧 。
^ Foster, Joseph , ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (S to Z) (英語). Vol. 4. Oxford: University of Oxford. p. 1595.
^ a b c d e f g h Thorne, R. G. (1986). "WODEHOUSE, Sir John, 6th Bt. (1741-1834), of Kimberley House, Wymondham, Norf." . In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年9月4日閲覧 。
^ Historic England (18 September 1987). "Kimberley Hall (Grade II*) (1001007)" . National Heritage List for England (英語). 2021年9月4日閲覧 。
^ a b Brooke, John (1964). "Great Yarmouth" . In Namier, Sir Lewis ; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年9月4日閲覧 。
^ a b Brooke, John (1964). "Norfolk" . In Namier, Sir Lewis ; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年9月4日閲覧 。
^ a b c d e Thorne, R. G. (1986). "Norfolk" . In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年9月4日閲覧 。
^ "No. 14052" . The London Gazette (英語). 7 October 1797. p. 968.
^ a b c Debrett, John (1829). Debrett's Peerage of the United Kingdom of Great Britain and Ireland (英語). Vol. I (18th ed.). London: G. Woodfall. p. 399.
外部リンク