ジャンパオロ・ダラーラ
ジャンパオロ・ダラーラ(伊:Giampaolo Dallara、英:Gian Paolo Dallara、1936年11月16日 - )は、イタリア出身の自動車技術者、実業家。自動車企業「ダラーラ・アウトモビリ」の創業者。 青年期には母国自動車メーカーの要職を歴任し、特にランボルギーニにて高い実績を積む。レース活動実現のため、1972年に自ら起業しモータースポーツに進出。以来、各分野にフォーミュラカーを供給する一大企業に育て上げた。 略歴スーパーカー開発パルマ県ヴァラーノ・デ・メレガーリ出身[1][3]。ミラノ工科大学で航空力学を専攻し、1959年に博士号を取得して母国の自動車メーカー『フェラーリ』に入社。モータースポーツの仕事に携わり[4]、カルロ・キティの下でエンジニアリング・アシスタントを担当した[5]。1年半後には『マセラティ』へ移籍し、カーレースのブランドから撤退するまで在社[2]。 1963年、新興メーカーであった『ランボルギーニ』にスカウトされ、チーフエンジニアの地位に就く。ここで同僚のパオロ・スタンツァーニやボブ・ウォレス[6]、マルチェロ・ガンディーニ(ベルトーネ社)らと共同で、初期の代表車種である「ミウラ」や「エスパーダ」などを開発した[7]。 さらに本人は、フェラーリやマセラティ時代に体験したフォーミュラカーの開発や、ミウラでのレース参戦を熱望。しかし社長のフェルッチオ・ランボルギーニにはレース参戦の意思はなく、このことが原因で1968年にランボルギーニを退社し、実現のために1969年から『デ・トマソ』に移籍する[8]。 ここでF2マシンやフランク・ウィリアムズ(後のウィリアムズF1チーム代表)率いる『フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ』のF1マシン設計を担当した。しかし開発した「デ・トマソ・505/38」は性能が不足しており、1970年のF1世界選手権で死亡事故が起きてしまう。デ・トマソはプロジェクトから手を引き、本人は大きな挫折を味わった。 モータースポーツ・コンストラクターとしての成功やがてデ・トマソを離れ、1972年に地元パルマ県にて起業し、自動車開発メーカー『ダラーラ・アウトモビリ』を設立した。初期は国内向けの小排気量スポーツカーを発表しながら、ランチア・ストラトス(グループ4)やランチア・ベータ・モンテカルロ(グループ5)など外部企業の開発コンサルタントを請け負う。 フォーミュラカーの分野においては、デ・トマソ時代に縁のあったフランク・ウィリアムズ・レーシングカーズの仕事を請け負い、F1マシンの改修に協力。後の同チーム冠名F1マシン「ウィリアムズ・FW」シリーズの誕生に貢献した。そして1978年よりF3シャーシの製造・販売市場に参入し、F3初のカーボンモノコックを開発[9]。ラルトやレイナードとのシェア争いを経て、1990年代末にはダラーラの寡占状態を実現する[10]。2000年代以降、フォーミュラレースで車体のワンメイク化が進行すると、GP2(→FIA F2)、GP3(→FIA F3)などの下位カテゴリーにおいて、独占供給するまでに会社を成長させた[11]。 F1にはチーム『スクーデリア・イタリア』と提携し、1988年よりコンストラクターとして参戦。その後は、米国のインディカー・シリーズや耐久レースの分野にも供給を拡大させ、2000年代にはル・マン耐久シリーズに出場するプロジェクトを指揮。2010年代はスーパーフォーミュラやフォーミュラEへの供給も開始。さらには念願だったロードカーの開発に着手し[12]、2017年に初の自社製市販車「ダラーラ・ストラダーレ」を発表している[13]。 社外の役員としては、1980年代からイタリア・モータースポーツ委員会に属し、1996年に副会長に就任。1998年には、国際自動車連盟 (FIA) のイタリア代表委員に選出されている。表彰に関しても数多く、2013年には母国の栄誉「イタリア共和国功労勲章」(グランデ・ウッフィチャーレ)を受勲した。 開発に関わった主な車種
ほか多数 ギャラリー
脚注
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