ジャンヌ2世 (ブルゴーニュ女伯)
![]() ジャンヌ2世・ド・ブルゴーニュ(Jeanne II de Bourgogne, 1291年ごろ - 1330年1月21日)は、フランス王フィリップ5世の王妃。ブルゴーニュ伯オトン4世とアルトワ女伯マティルド(マオー)の長女[1]。妹ブランシュは夫の弟シャルル4世の王妃。ブルゴーニュ女伯(在位:1315年 - 1330年)およびアルトワ女伯(ジャンヌ1世、在位:1329年 - 1330年)でもあった。 生涯1302年に父オトンが死ぬと、その唯一の男子であった幼い弟ロベールは1295年のヴァンセンヌ条約によりもともと相続権がなかったため、オトンの娘のうち最年長であったジャンヌが伯位を継承した。のち1329年に母のアルトワ伯位も継いでブルゴーニュ女伯兼アルトワ女伯となった。 1307年、フィリップ4世の次男ポワティエ伯フィリップ(後のフィリップ5世)と結婚した。2人の間には1313年までに以下の子女が生まれた。
1314年、夫の妹イザベルの密告により、姦通の罪で王太子ルイ(後のルイ10世)妃マルグリット、妹ブランシュとともに捕らえられ、ジャンヌはドゥルダンへ幽閉された[3]。ジャンヌは己の潔白を主張し続け、ジャンヌら姉妹の母マティルドの奔走も加わり、パリの法廷で彼女の無罪が宣言され[4]、3人のうち彼女だけが許されて宮廷へ戻った[5]。彼女だけが、夫との間に信頼関係が築かれていたためだともいえる。 幽閉による空白はあったものの、ジャンヌとフィリップにはその後1男1女が生まれたが、どちらも夭折した。 1316年にフランス王ルイ10世が亡くなると、夫フィリップがフランス王となり、ジャンヌは王妃となった[8][2] 。 1322年に夫と死別後、ジャンヌは宮廷を出て自分の領地で暮らした。1330年にロワ=アン=アルトワで亡くなり[9]、遺体はパリのコルドリエ修道院に葬られた[10]。ジャンヌの保持していたブルゴーニュ伯領は、1318年にブルゴーニュ公ウード4世と結婚した長女のジャンヌ3世が継承した。この結婚によりブルゴーニュ伯領とブルゴーニュ公領は統合された。ブルゴーニュ伯領とアルトワ伯領は1361年に次女マルグリットが継承した[2]。 パリの大学コレージュ・ド・ブルゴーニュはジャンヌにちなんで名付けられた。 脚注
参考文献
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