ジャコ万と鉄『ジャコ萬と鉄』(ジャコまんとてつ)は、梶野悳三の小説『鰊漁場(にしんば[1])[注釈 1]』(1947年)を原作とした日本映画。1949年と1964年に映画化された。 北海道のニシン漁場に出稼ぎにきた荒くれ男たち=「ヤン衆(ヤンシュ)」と、彼らを束ねる網元の男の対立を背景に、漁場に突然現れた網元に恨みを持つ男・ジャコ萬と網元の息子・鉄の敵対および和解が描かれる。 あらすじ昭和21年(1946年)。ニシン漁に備え、全国から「ヤン衆」たちが集まる季節になり、網元の吉本久兵衛(映画では九兵衛)が仕切る漁場でもたくさんの男たちが集まった。その中に久兵衛と旧知で、死んだと思われていた通称「麝香鹿の萬吉」=ジャコ萬(ジャコ万)がいたため、久兵衛は驚く。ジャコ萬はかつて樺太で網元をしていた久兵衛のもとで漁を手伝っていたが、粗暴なために漁場を追われたすえ、引き揚げの際に置き去りにされたため、一時死の淵をさまよい、恨みをつのらせていた。漁の準備も手伝わずに番屋に居座るジャコ萬は暴力的にふるまい、ヤン衆を支配していく。負い目のある久兵衛は、老いも手伝い、ジャコ萬に立ち向かうことができなかった。 そんな中、海南島沖で戦死したと思われていた久兵衛の息子・鉄(鐵)が数年ぶりに帰郷する。久兵衛は鉄の帰郷を喜ぶが、後継をまかされていた養子の宗太郎は気が気でない。早速ジャコ萬は鉄に喧嘩を吹っかけるが、鉄は軽くいなして済ませる。網下ろしの日以来、鉄は精力的に動き、陽気な人柄もあってヤン衆の信頼を集める。 ニシンの大群が湾内にやって来る豊漁日となったが、ヤン衆が報酬の値上げを求めてストライキに入ることを通告し、久兵衛は狼狽する。復讐の機会をうかがっていたジャコ萬がこの混乱に乗じ、ヤン衆を人質に取って番屋に立てこもる。鉄が飛びかかってジャコ萬を押さえて懲らしめる。鉄の態度に感心したヤン衆は海へ飛び出す。 1949年版
1949年7月11日公開。東宝製作・配給。谷口千吉監督作品。資料[4]によっては『ジャコ万と鉄』とも表記されるが、作中のタイトル表記は『ジャコ萬と鉄』である。 原作小説では北海道天塩が舞台だが、シナリオ段階で積丹半島になり、実際の撮影は増毛町の岩老海岸を中心に行われた[5]。荒海は特撮で表現している[3]。 三船敏郎と浜田百合子の情熱的なラブ・シーンが話題を呼んだ[6]。 原作との違い(1949年版)
キャスト(1949年版)
スタッフ(1949年版)外部リンク(1949年版)
1964年版
1964年2月8日公開。高倉健主演・深作欣二監督による東映東京撮影所作品。 主演の高倉健自らの企画作品であり、彼のキャリアの中では異例である[7][8]。高倉・深作の組み合わせは、本作、『狼と豚と人間』、高倉が特別出演した『カミカゼ野郎 真昼の決斗』の計3本である[9]。 原作との違い(1964年版)
出演者(1964年版)順序は本作タイトルバックに、役名の一部は国立映画アーカイブ[10]によった。
スタッフ(1964年版)
製作企画1949年の東宝版を封切り時に観て、興奮して夜も眠れなかったという高倉が、当時の東映東京撮影所所長・岡田茂に「やらせて下さい」と頼み込み[7]、「1964年は高倉を一億円スタアに仕立てる」と宣言していた岡田もそれに乗り、製作を決めた[11][12]。製作発表時は「ギャング路線」などの成功で意気上がる東映東京撮影所が男性映画の決定版をいかにこなすかが評論家筋に注目された[6]。高倉はすでに独特の存在感を示し始めてブレイク直前だった[13]。 映画化が決まると高倉健は東宝撮影所に出向き、三船敏郎に挨拶した[14]。たまたま一人で部屋にいた三船は、高倉の訪問に立って歓迎し、自ら茶を入れた[14]。元々三船のファンだった高倉はすっかり感激し、以後三船をより尊敬するようになった[14]。 撮影1963年12月1日から20日まで、積丹半島・入舸町の島武意海岸で80人規模[15]のロケーション撮影が行われた[5][6][15]。かつて同地は広い海岸がニシンで埋まり、一夜にして数千万円の儲けを生む「千石漁場」といわれた北海道有数の漁場だったが、1953年頃から不漁となり、夏には札幌方面から釣り客や海水浴客が押し寄せてにぎわうものの、番屋などは荒れ果てていた。スタッフは4000万円かけて番屋や運搬用トロッコのトンネルなどを改修した[15]。 町は「歓迎・東映ロケ隊」の幟を押し立てて大歓迎し[15]、スタッフ・出演者は連日、ホッケなどの海の幸が食卓に並ぶ手厚いもてなしを受けたが、魚が嫌いでイカ刺しぐらいしか食べられなかった高倉はすき焼きが恋しかったという[15]。 撮影の際、通常の作品は「天気待ち」として晴天を待つが、本作は極寒の北の海の荒涼とした「アジ」を出すため、オホーツク海の波濤が荒れる荒天を待って撮影した[16]。 1949年版で鉄を演じた三船敏郎は、下半身はペンギンと呼ばれるゴムつなぎを着て、上半身は裸だったが[17]、ロケの前の晩に高倉が「いい映画が出来るなら、自分はフンドシ一丁でやるよ」と啖呵を切って引っ込みがつかなくなった[8][17]。漁師は通常、全身にグリースを塗って冬の海に入るが、高倉はそうせず、まわりに「死ぬぞ」と忠告されながら無造作にマイナス16度の海に飛び込んだ[8][12][17]。すぐに引き上げられた高倉はその直後から「ゲエゲエ戻し、3日間寝こみ死にかけた[17]」。 それまで年長の監督から個性を伸ばすように育てられてきた高倉にとって、同学年の深作欣二とは合わなかった[13]。鋳型にはめ込む深作演出は窮屈で仕方なく、高倉はプロデューサーの吉田達に「押し付ける演出はもう嫌だ」としきりに漏らした[13]。深作も撮影終了後、周囲に「あんな下手な役者は二度と使わない」とこぼした[13][注釈 3]。高倉は本作あたりから映画に本腰を入れて取り組むようになったという[19]。 作品の評価由原木七朗(東京新聞文化部)と小山耕二路(近代映画編集長)は以下のように評している。
再上映1994年秋、「健さん片想いの会」が吉祥寺バウスシアターで本作の上映会を開いた[19]。上映日は高倉主演の『四十七人の刺客』封切の前日で、本作上映は同会メンバー間のアンケート結果により決まったものである[19]。 同会の谷充代は「参加メンバーにサプライズな贈り物が出来ないか」と考え、高倉に「何かメッセージを頂けないでしょうか」と手紙を書いた。高倉は自作の録音テープを送った。同テープは上映会で流された。内容は高倉がギター曲をバックに肉声で想い出などを語るもので、「本作はとても思い入れのある作品」と話し、上述のフンドシ一丁で海に飛び込んだエピソードなどを語った[19]。 外部リンク(1964年版)
脚注注釈出典
参考文献
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