ジミー・ジョーンズ (野球)
ジェームズ・コンディア・ジョーンズ(James Condia "Jimmy" Jones, 1964年4月20日 - )はアメリカ合衆国・テキサス州ダラス出身の元プロ野球選手(投手)。 来歴・人物1982年のドラフト会議でサンディエゴ・パドレスから1巡目で指名を受ける。1986年9月21日、メジャーデビュー戦にて1安打完封の好投を見せ、技巧派投手として主に先発投手で起用された。1988年10月24日にパット・クレメンツ・ジャック・クラークとの2対3のトレードでランス・マッカラーズ、スタン・ジェファーソンとともにニューヨーク・ヤンキースに移籍[1]。1991年3月19日にはヒューストン・アストロズに移籍した[1]。同年秋には右ヒジの手術を受けてリリーフへの転向が決まったが、翌1992年は先発として起用され自身初の2桁勝利を挙げている[2]。1993年1月25日にはモントリオール・エクスポズに移籍した[1] が、夏には右ヒジ遊離骨の除去手術を受けている[3]。 同年11月15日に年俸と契約金合わせて60万ドル(当時のレートで約6,300万円)で、巨人と入団契約を結んだ[4]。1994年はキャンプで投球内容を評価され[3]先発ローテーションに入ったが、5月4日の対横浜戦でショートに内野安打を放った際に一塁で駒田徳広と交錯し、左足首を剥離骨折した[5]。その後2ヶ月間はリハビリに専念し、回復に合わせて走りこみなどのトレーニングを行なっている[5]。7月7日のイースタン・リーグで登板して好投を見せる[6] と、7月14日には一軍の対中日戦で先発し、7回を無失点に抑えて復帰戦で勝利を挙げた[5]。この試合を含めて8月23日の対ヤクルト戦まで35イニングを投げ防御率1.54という安定した投球で5連勝を記録し、斎藤雅樹、槙原寛己、桑田真澄の3本柱に次ぐ先発の地位を確立している[7]。同年の日本シリーズでは第3戦に先発し、5回1/3を投げて6安打1失点(自責点0)でチームは延長戦の末に勝利している[8]。 1995年は一軍で6試合に先発し、4月30日の横浜戦では来日初の完投を完封勝利で記録するが[9]、6月に右ヒジ痛を訴えて登録を抹消され、検査の結果内側側副靱帯損傷が判明した[10]。その後は一軍に復帰することなく9月28日に戦力外通告を受け[11]、そのまま現役を引退している。 2012年は当初サンディエゴ・パドレス傘下AAA級ツーソンで投手コーチを務めていたが、パドレスのブルペンコーチであるダレル・エイカーフェルズが膵臓がんにより亡くなったため、6月からシーズン途中までその後任を任された。 その後もパドレス傘下球団での指導者の道を歩み、2013年から2018年まではAA級サンアントニオ・ミッションズ、2019年はAA級アマリロ・ソッドプードルズ、2021年から2022年まではA+級フォートウェイン・ティンキャップスで投手コーチを歴任した[12]。2023年からはAAA級エルパソ・チワワズの投手コーチ補佐を務めている[13]。 プレースタイルなどカーブ、チェンジアップのほか、鋭いスライダーやムービングファストボールなど多彩な変化球を駆使した[2]。長い腕をしならせるフォームから低めに制球し、大崩れしにくいタイプだと言われた[3]。スタミナに不安があるため巨人では100球をメドに交代していたが、5回までは安心して試合を任せられるとコーチの堀内恒夫は評している[7]。 被本塁打が少なく、1994年は9月10日の広島戦で江藤智に打たれたのが唯一のホームランだった。 投手ながら打撃が良く、メジャーでは通算2本塁打を放ち、日本でも28打数8安打という打撃記録を残した。 詳細情報年度別投手成績
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク
|