ジェラルド・ファネンブルグ
ジェラルド・ファネンブルグ(Gerald Vanenburg、1964年3月5日 - )は、オランダ・ユトレヒト出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはMF、DF(リベロ)。オランダ現地での発音は「ヘラルト・ファネンブルフ」。 略歴アヤックスの下部組織で育ち1980年に1軍デビューを果たすと、直ぐに頭角を現しレギュラーの座を掴むと3度のリーグ優勝に貢献した。この活躍によりオランダ代表に選出され、1982年4月14日のギリシャ戦において代表デビューを果たした。 その後は伸び悩んでいた中[2]、1986-1987シーズンにはPSVアイントホーフェンへ移籍し中心選手として活躍をみせ、5度のリーグ優勝に貢献。、1987-88シーズンにはUEFAチャンピオンズカップ決勝のベンフィカ戦では先発フル出場、PK戦では4人目のキッカーとしてPKを成功させ優勝を果たした[3]。1988-89シーズン開幕前にはミカエル・ラウドルップとのトレードでユベントス移籍の話も出ていたが、チームと4年間の契約を延長した[2]。同年日本で開催されたインターコンチネンタルカップのナショナル戦に先発出場したが、69分に交代、チームは2-2から延長PK戦の末に敗れた[4]。 EURO1988では右ウイングの位置から中盤を組み立て優勝に貢献した[5]。1990年のイタリアW杯ではグループリーグ初戦のエジプト戦で先発出場したが、後半開始から途中交代を命じられ[6]、その1試合のみの出場に留まった。1992年10月14日のFIFA ワールドカップ 1994予選、ポーランド戦で途中交代で出場を果たしたが[7]、この試合が代表最後の試合となった。 1993年には日本代表監督であったハンス・オフトから誘われる形で、当時JFLのヤマハ発動機(ジュビロ磐田)へ入団、広い視野[8]、高いテクニックと左足の正確なキックを武器にチームに貢献[9]、その後迎える磐田の黄金時代に大きな影響を与えた[10]。1994年度には週刊サッカーマガジンが選出したJリーグ年間ベストイレブンに選出されている(ポイントは第1位)[11]。 1994年4月13日のジェフユナイテッド市原戦でJリーグ初ゴールを決めた[12]。加入当初は中盤の司令塔としてプレーしたが[10]、ドゥンガの加入後はリベロとしてプレーした[10]。1995年は古傷である左膝の状態が悪く、1stステージ序盤から終盤まで欠場、複帰後もフル出場は出来ない状態であった[13]。1996年9月21日、第20節のアビスパ福岡戦で2ゴール(2点目のゴールは磐田での最後のゴール)を決めて勝利に貢献するなどの活躍をしていたが[14]、その後は負傷で第22節から25節まで欠場、10月26日、第26節のジェフ市原戦で複帰、74分から藤田俊哉との交代で出場するも、その試合で負傷し、82分に交代を強いられ[15]、この試合が磐田でも最後の試合となった。Jリーグ通算は86試合14ゴールの成績を残した[12]。 磐田退団後は故郷のクラブチーム・FCユトレヒトへ移籍した。その後フランスのASカンヌを経て、2000年、ドイツ・ブンデスリーガ・1860ミュンヘンを最後に現役を引退した。 引退後はPSVユースの監督、かつて在籍した1860ミュンヘンの監督を務めた。その後再びPSVの育成部門に復帰したが2006年3月現在フリー。2005年12月にはオランダサッカー協会の指導者ライセンスを取得している。 トピックス所属クラブ
個人成績
代表歴試合数
指導歴
タイトル選手時代
出典
関連項目外部リンク
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