シカンダル (カシュミール・スルターン朝)シカンダル(Sikandar, 生年不詳 - 1413年)は、北インド、カシュミール・スルターン朝の君主(在位:1389年 - 1413年)。その治世、ヒンドゥー教に対する弾圧を加え、ヒンドゥーの寺院や偶像を破壊したため、「偶像破壊者」(Butshikan)と呼ばれた[1][2][3]。 生涯1389年、シカンダルは父王クトゥブッディーンの死により、即位した[4]。彼は王朝の創始者シャー・ミールの孫にあたる[4]。 この時代はムスリムの聖者や亡命者が中央アジアからカシュミール地方に流入し、社会が大きく変容していた時代でもあった[5]。これは中央アジアにティムール朝が成立したことが大きかった。また、ヒンドゥー教とイスラーム教のいくつかの特徴を結びつけた「リシ」と呼ばれるスーフィー聖者が興隆していた[5]。 一部は聖者らの布教によって、また一部は下層民が力によってイスラームによって改宗した。シカンダルはイスラーム教の熱烈な信者であったため、この流れをさらに加速させた[5]。伝承の多くは、これをグブラウィー教団のサイイド・アリー・ハマダーニーの影響に帰結している[2]。1393年にカシュミールにやって来たミール・ムハンマド・ハマダーニーも大きな影響を与えた[6]。 シカンダルはバラモンに激しい迫害を加え、彼はヒンドゥー教徒にムスリムになるか、カシュミールを出ていくかの、二つに一つの厳しい選択を迫った[5]。ヒンドゥー教徒の寺院は破壊され、金銀の偶像は溶かされて通貨にされた[5]。ヒンドゥー教徒は改宗するか、カシュミールから逃げるか、あるいは両方を拒んで殺されるものが続出した[7]。これらの命令は王国の大臣でヒンドゥー教からイスラーム教に改宗したスーハ・ハダの提案によるものであったという[5]。 これら一連の行動により、14世紀末にカシュミール地方のイスラーム化が大きく進行した[2]。とはいえ、一連の行動は必ずしも在来の信仰を排除するためのものでなく、共存、あるいは融合する動きも含んでいたとする説もある[2]。政権の運営にはヒンドゥー教とも多く参加しており、王族とヒンドゥー教徒との通婚もしばしば行われた[2]。シカンダルは「偶像破壊者」の称号を帯びているが、それはムスリム王朝成立から半年たってもまだ、ヒンドゥー教の信仰が盛んであったことを示していると考えることもできる[2]。 また、シカンダルは学者を手厚く保護し、西アジアから多くの学者がこの地へと移った[1]。 シカンダルの死後、その年長の息子アリー・シャーが王となった[4]。だが、1420年に彼はメッカへと巡礼に行き、その弟ザイヌル・アービディーンが王位を継承した[1]。 脚注
参考文献
関連項目 |
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