ザ・カーナビーツ
ザ・カーナビーツは、1967年2月に結成されたグループ・サウンズ。 1967年6月1日に、シングル『好きさ好きさ好きさ』でデビュー。1969年9月解散。 メンバー
来歴1967年1月、高野はそれまで所属していたフリーランサーズを脱退、直ちに新たなバンドを作るべく、元スウィング・ウエストの喜多村次郎とフリーランサーズ時代の仲間である越川弘志を誘う、越川は名古屋のジャズ喫茶「グランドキャニオン」時代からの盟友である臼井啓吉、そして同じく彼の友人であり、名古屋でサウンズ・オブ・ウエストのメンバーだった岡忠夫を迎え、彼らがひいきにしていた大田区蒲田のレストラン「80」の経営者で、元バンドマンの三池昌弘氏の全面的なバックアップもあり[1]ロビンフッド[2]の名で活動を始める。 やがて彼らはフイリップス・レコードの発売元である日本ビクターにて行われたオーディションで合格した。この際に演奏したイギリスのバンドゾンビーズ[3]のオリジナル曲である「I Love You」(1965年)[4]は彼らのアレンジが功を奏し、さっそくプロデューサーの本城和治は英米ポップス曲の訳詞に長けていた漣健児へ日本語訳を依頼、誕生したのがデビュー曲となる「好きさ好きさ好きさ」であった。デビューにあたって彼らはミュージック・ライフ編集長だった星加ルミ子によってザ・カーナビーツ[5]とバンド名を改め、所属事務所は彼らのために起ち上げたロビン企画となる。 67年6月、キャッチフレーズであるカーナビーサウンド・エージのアイドルとして同じフイリップス所属のザ・ジャガーズ[6]と共にデビューを果たす。デビューシングル「好きさ好きさ好きさ」では情熱的に唄う高野がドラム・スティックを突き出し「お前のすべてを」と絶叫、これが女学生達を虜にし忽(たちま)ち爆発的なヒットを記録する。既にデビューしていたザ・スパイダース、ザ・タイガース、ブルーコメッツ、そしてジャガーズといった他のエレキ・バンドの人気と共にこの曲の大ヒットはGSブームを巻き起こすきっかけの一つとなった。 67年9月に発売された2枚目のシングル「恋をしようよジェニー」でも高野の歌声がファンのハートを掴みヒット。またB面の「お前に夢中さ」では星加ルミ子の勧めから和訳を担当した臼井がエネルギッシュに唄っている。続く10月発売の3枚目となるシングルはデイヴ・ディー・グループのカヴァー曲となる「オーケイ!」、B面にはポール・アンカのヒット曲「クレージー・ラブ」この曲で彼らは敢えてファズ[7]を使うことによってカーナビーツらしいアレンジへと仕上げている。カーナビーツは、喜多村とメンバー全員の感覚が洋楽に近く、ロックらしいサウンドを出すバンドであった。 1968年2月発売の「泣かずにいてね」で彼らはそれまでと違った表情を見せた。この作品は橋本淳とすぎやまこういちのコンビが担当したバラードで、物悲しく唄う高野とメンバーのコーラスが交じった曲へと仕上がった。さらに10日後に、日本ではビートルズに並ぶほどの人気を得ていたザ・ウォーカー・ブラザース(UK)のドラマーであるゲイリー・ウォーカーを迎え録音された「恋の朝焼け」(Cutie Morning Moon)を発表した。この曲はスコット・ウォーカーが作詞を担当、録音が行われた1月9日夜から明け方までに演奏とコーラスを録り終え、スコットは帰りの車中で窓越しから見えた「しらじらと明けてゆく空にうっすらと残る月の影」よりひらめき「Cutie Morning Moon」(キューティー・モーニング・ムーン)へと曲名は決まる、そして作曲は「恋をしようよジェニー」の作曲者であるプロデューサー本城が、乗輪寺モトオ名義で担当した。続く5月に発売された6枚目となるシングル「愛を探して」は臼井にとってA面初のソロとなり、「月光仮面」の原作者として知られる川内康範が作詞し、この曲をスパイダースのためにビクター・レコードへ持ち込むが同じフィリップス・レコード所属のカーナビーツへと回ってきたという経緯があった。この年は、日劇ウエスタンカーニバルへの連続出場、複数の映画出演、LP「ザ・カーナビーツ・ファースト・アルバム」のリリース、不二家、ペプシコーラのイメージ・キャラクターを務めたほか、東京と大阪で6月にワンマンショーを開催するといった好調が続き、8月に入るとシングル「ウム・ウム・ウム」が発売された。しかしGSブームはこの1968年をピークに下火へと向かい始める。10月にはシングル「マイ・ベイビー」が発売、初期のシングルを彷彿とさせる高野の歌唱を以ってしてもヒットへは至らなかった。 翌1969年3月にマーマレードのヒットで有名なビートルズの「オブラディ・オブラダ」を久々に漣健児の訳詞で発売。だが4月にはヴォーカルの臼井が脱退、代わって他のGSにいたポール岡田が加入、6月には新メンバーによる第1弾シングルとして「南米発69年のニュー・リズム・テルテル」を取り入れた「テルテル天国」を発売した。カヴァー曲であるA面に対し、B面は三木たかし作曲によるラテン歌謡「真夜中の恋人たち」共に流行を先取りしたサウンドで起死回生を図るも、もはやGSブームの衰退には歯止めがかからず、同年9月に喜多村と岡が脱退し、雑賀京一とリエが加入するが結局解散してしまった。[8] 解散後、アイ高野は1970年1月を以ってザ・ゴールデン・カップスへドラマーとして加入。その後、クリエーション等のバンドに参加するも、2006年に死去している。 ディスコグラフィシングル
アルバム好きさ好きさ好きさ/シーズ・ノット・ゼア/夕陽の沈む街/サニー/口笛天国/サージェント・ペッパーズ
恋をしようよジェニー/泣かずにいてね/オーケイ!/チュッ!チュッ!チュッ!/おまえに夢中さ/すてきなサンディ/好きさ好きさ好きさ/アナベラ/悲しみのベル/吹きすさぶ風/クレージー・ラブ/若い思い出 主な出演作品映画
テレビ
* ザ・タイガースがホストの回。マンスリーゲストとして、小川知子と共に出演。 関連項目参考文献
脚注
外部リンク
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