サーサーン朝領エジプト
サーサーン朝領エジプト(サーサーンちょうりょうエジプト、アルメニア語: Պարսկահայաստան、619年-629年)はサーサーン朝の支配下に入った時期の、現在のエジプトやリビアなどの地域を指す。 サーサーン朝皇帝ホスロー2世は東ローマ・サーサーン戦争を引き起こした。戦いの中で、配下の将軍シャフルバラーズはエジプトを征服した。ホスロー2世がクーデターにより命を落とし、東ローマ皇帝ヘラクレイオスとサーサーン朝が和平交渉を結ぶまで、エジプトはおよそ10年間に渡りサーサーン朝の支配を受けた。 概要→「サーサーン朝のエジプト征服」も参照
エジプトはサーサーン朝(おそらくその将軍シャフルバラーズ)によって征服され、619年ごろには、州都アレクサンドリアもサーサーン朝によって陥落した。エジプトの防衛部隊は現地民で構成されていて、その実態は戦闘経験がない警備員のようなものであった[1]。アレクサンドリアを除いては、大きな武力抵抗の痕跡も残っておらず、エジプトの征服は容易であったと考えられる[1]。 エジプトは東ローマ帝国の領域の中でも特に裕福な地域であり、その喪失は東ローマ帝国に大きな衝撃を与えた[1]。これらの征服時期はよくわかっていないが、アレクサンドリアのは619年6月までには陥落していて、その後も南に占領地を広げ、621年までには全東ローマ領エジプトを支配している[1]。 サーサーン朝のエジプト征服には不明なところが多い。タバリーの記述によると、将軍シャーヒーンが陥落させたとある[2][3]。一方で、シャフルバラーズが征服したと記述する資料もある。現代の歴史家のほとんどは、シャーヒーンは小アジア征服中であり、エジプトへは派遣されておらず、シャフルバラーズがエジプトを陥落させたとみなしている[2]。また、その正確な日時も分かっていないが、発見されたパピルス文書と一次資料から619年ごろとされている[4]。 シャフルバラーズはシャフルアーラーニヨーザーンがエジプト総督につくまでの間、エジプトを統治した。新たに統治者となった、シャフルアーラーニヨーザーンは「karframan-idar」(「宮廷執事」の意味)の称号を名乗った。エジプトの総督を務めるとともに、徴税官を兼任し、ファイユームに居住したとされる[5][3]。彼は、単なる徴税官のみならず、武官も兼ねていてエジプトに駐留した軍の指揮官ともされている[5]。中期ペルシア語の文献では、エジプトを「Agiptus」として以下のように記述されている。「agiptus būm kē misr-iz xwānēnd」(ミスル(Misr[注釈 1])とも呼ばれるAgiptusの土地)。ナイル川は「rōd ī nīl」と呼ばれた。 626年以降の資料には、シャフルアーラーニヨーザーンについての記述が無く、代わってシャフルバラーズがエジプトの支配者として記述されている[6]。622年ごろから東ローマ・サーサーン戦争は東ローマ帝国が攻勢に出ている。626年にはコンスタンティノープル包囲に失敗した。628年にはファッルフ・ホルミズドら貴族によりホスロー2世が廃位され、新たに即位したカワード2世が和平交渉に応じたことで戦争は終結した[7]。カワード2世はシャフルバラーズに占領地から撤退するよう求めたが、それに応じずエジプトから撤退しなかった[2]。ヘラクレイオスはシャフルバラーズと和平交渉を始め、自身の王位簒奪への援助と引き換えにエジプトから撤退した[2][8]。630年1月までにはエジプトが東ローマ帝国のもとに奪還された[2][6]。 統治シリア語の資料には、ホスロー2世はシャフルバラーズに「服従する者は友好的に受け入れ、平和と繁栄を保て。しかし、抵抗して戦争を起こすような者は剣を持って殺せ」と助言したと記述されているように、征服が行われてすぐは、暴力行為があったが小規模なものに過ぎなかった[9]。サーサーン朝は東ローマ帝国時代の統治機構を維持するとともに[4]、エジプトの臣民には、ゾロアスター教の改宗を強制しなかった。単性論派のキリスト教会を支援し、ビザンツ教会を迫害し、コプト教徒はこの状況の中で、多くの正教会を支配下に置いた[10]。エジプトには数多くのサーサーン朝の駐屯地が設けられた。エレファンティネ島、Herakleia、オクシリンコス、Kynon、テオドシオポリス、ヘルモポリス、アンティノオポリス(Antinopolis)Kosson、リュコス(Lykos)、ディオスポリス(Diospolis)、マクシミアノポリス(Maximianopolis)などがその代表例である。これら駐屯地では臣民から税を徴収し、軍隊用の必需品を調達していた。発見されたパピルスの文書には、サーサーン朝による税の徴収について言及されていて、徴税方法は東ローマ帝国と変わっていないことが分かっている[11]。また別のパピルスには、サーサーン朝兵士とその妹について言及されていて、兵士とともにエジプトに定住した家族がいたことが判明している[12]。 エジプトにおけるサーサーン朝の統治は東ローマ帝国の統治に比べるとほんの僅かであったが、その影響は今でも残っている。例えば、殉教者や告白者(confessors)を称えるコプト派の正月の祝祭ナイルーズは、イラン正月の祝祭ノウルーズに由来する[13]。また、サーサーン朝に関する祝祭日として十字架挙栄祭があり、イエス・キリストが磔となった聖十字架の発見と、628年にサーサーン朝から奪還してエルサレムに返納されたことを記念している。エジプトで繁栄したコプト美術も、サーサーン芸術から大きく影響を受けている[14]。 統治者の一覧
脚注注釈
引用
参考文献
関連項目 |