サルグミーヌ
サルグミーヌ(フランス語:Sarreguemines、ドイツ語:Saargemünd、ザールゲミュント)はフランス共和国、グラン・テスト地域圏、モゼル県のコミューン。歴史的なロレーヌの一部である。 市街地は、ドイツ国境に沿って広がっており、1997年より、ドイツのザールブリュッケンとトラムで結ばれている。 地理ドイツとの国境である、ザール川およびブリー川に面している。ラテン語で合流点を意味する"gemundia" が語源となっている。 由来
歴史公文書でサルグミーヌに言及されたのは777年にさかのぼる。それはピピン短躯王とカール大帝の顧問を務めた聖職者フルラートが、サルグミーヌ(当時はラテン語名のGaimundia)を含むこの地域に所有していた自らの財産をサン・ドニ修道院に寄付した、記述が証である。10世紀から12世紀にかけて、ザール川とブリー川の合流地点を監視するため建てられた城の周りで、サルグミーヌの村は成長していった。1297年、サルグミーヌはツヴァイブリュッケン公国から、神聖ローマ帝国を宗主国に持つロレーヌ公国の支配下に移り、ウィーン条約によって1766年にフランス王国に併合された。 それにもかかわらず、ロレーヌ公国は1737年から1766年までスタニスワフ・レシチニスキ(元ポーランド王かつ、ルイ15世王の義父で、かつてツヴァイブリュッケン公国に亡命していた)が治め、レシチニスキは公国南部のリュネヴィル、ナンシー、コメルシーで暮らした。宗主国の傀儡として、彼は義理の息子の実際の権力に屈していた。王はロレーヌ大執事にラ・ガレジエール大臣を任命していた。スタニスワフは重税を強いたため民衆の人気がなかったが、彼はラ・ガレジエールを支持した。また、この時代に、ゲルマン語起源で一般に用いられていたプラット・ロレーヌ語の使用を抑制する最初の処置がとられた。 町は1698年にドイツの代官区の中心地となっていた。住民たちはゲルマン語方言であるロートリンゲン・フランケン語またはプラットを話していた。1748年まで、ドイツの代官区で出される公文書はドイツ語で書かれていた。大執事が想起させた命令で、ロレーヌにおいて公文書はフランス語が強制されるようになった。 人口統計2016年時点のコミューン人口は20944人で[5]、2011年時点の人口より3.05%減少した。
参照元:1962年から1999年までは複数コミューンに住所登録をする者の重複分を除いたもの。それ以降は当該コミューンの人口統計によるもの。1999年までEHESS/Cassini[6]、2006年以降INSEE[7][8] ファイアンス焼き18世紀終わりから、サルグミーヌにファイアンス焼きの工房がおかれた。陶器産業は、製造所を最高ランクに推進させたPaul UtzschneiderとPaul de Geigerから賞賛を得ていた。19世紀に初頭には、サルグミーヌは世界中に膨大な陶器コレクション、花瓶、植木鉢、壁掛けのフレスコ画、暖炉などを提供していた。 拡大の時代の後、サルグミーヌのファイアンス焼きは徐々に活動を鈍らせ、2007年2月に最終的に消滅した。 姉妹都市
出身者脚注
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