ゴードン・ベネット・カップ (自動車レース)ゴードン・ベネット・カップ (Gordon Bennett Cup) は、1900年から1905年にかけて6度開催された国別対抗自動車レースである。国際規定(インターナショナル・フォーミュラ[要曖昧さ回避])に則って開催された初の国際大会であり、モータースポーツにおいてナショナルカラーが定着するきっかけとなった。 概要自動車レース黎明期の1890年代後半、フランスのパリを基点とする都市間レース(パリレース)が人気を博し、新聞社が後援するイベントも行われていた。ゴードン・ベネット・カップはアメリカの新聞「ニューヨーク・ヘラルド」の社主であり、パリ在住の大富豪であったジェイムズ・ゴードン・ベネット・ジュニア (James Gordon Bennett Jr.) の発案により創設された。 ベネットは国ごとの自動車製造技術を比較する機会として、各国自動車クラブが参加する国別対抗戦という方式を思い立った。彼はフランス自動車協会 (ACF) に純銀製の優勝杯を寄贈し、統一ルールを作成するよう働きかけた。
また、観客が車両の所属先を判別しやすいよう、国別にボディカラーが決められた[1]。これがナショナル・レーシングカラーの起源となった。
沿革第1回(1900年)第1回大会は1900年6月14日にフランスのパリ - リヨン間の568kmで行われた。フランス・ドイツ・アメリカ・ベルギー4カ国から7台がエントリーし、フランス製パナール2台が完走した。優勝者のフェルナン・シャロン (Fernand Charron) の平均速度は約62km/hだった。 第2回(1901年)第2回大会は1901年5月29日にパリ - ボルドー間の527kmで行われた。エントリー台数が少なかったため単独開催とせず、フランス自動車クラブ主催のパリ - ボルドーレースに組み込まれた。イギリスの1台はフランス製ミシュランタイヤを装着したため、「車両部品は自国製」という規定に抵触し賞典外とされた。結局、フランス車3台のみの出走となり、優勝者のレオンス・ジラルド (Léonce Girardot) のみが完走した。 第3回(1902年)第3回大会もパリ - ウィーンレースに組み込まれ、1902年6月26日から6月28日にかけてパリ - インスブルック間の565kmで行われた。フランス車3台とイギリス車3台がエントリーし、イギリスのセルウィン・エッジ (Selwyn Edge) のみが完走して優勝した。 第3回までは参加台数も少なく注目度は低かったが、フランス以外の国が初めて優勝したことで、ようやく国際的なメジャーイベントとして脚光を浴びることになった。参加国も増え、国によっては代表を決める予選会が行われるようになった。 第4回(1903年)第4回大会は規定によりイギリスがホスト国となったが、イギリス国内では公道上でのレースが禁止されており[3]、隣国アイルランドで開催されることになった。また、直前のパリ - マドリードレースが観客を巻き込む死傷事故により中止されたことで都市間レースは廃止され、キルデア県の公道を閉鎖した周回コース (527km) が設定された。1903年7月2日のレースにはイギリス・フランス・ドイツ・アメリカの4カ国から12台がエントリーし、ベルギー人カミーユ・ジェナッツィ[4] (Camille Jenatzy) の乗るドイツ車が優勝した。 イギリスではこれを機に、レースを開催できる土地が求められた。そこで、自治権をもつマン島の公道を閉鎖して、1904年・1905年にゴードン・ベネット・カップの選抜レースが行われた。これがきっかけとなり英国伝統のタイトル「RAC ツーリスト・トロフィー」が創設され、1907年よりオートバイのマン島TTレースが行われるようになった[5]。 また、鉄道王ヴァンダービルト家の一員で、レース愛好家でもあるウィリアム・キッサム・ヴァンダービルト2世 (William Kissam Vanderbilt II) はこの大会で惨敗したアメリカの奮起を促すため、1904年にヴァンダービルト・カップを創設した[6]。 第5回(1904年)第5回大会はドイツがホスト国となり、1904年6月17日にヘッセン州タウヌス山中の周回コース (511km) で開催された。イギリス・フランス・ドイツ・ベルギーに初参加のイタリアとオーストリア=ハンガリーを含めて6カ国18台がエントリーし、フランスのレオン・テリー (Léon Théry) が優勝した。無名のテリーは殊勲の勝利により、一躍フランスの国民的英雄となった。 第6回(1905年)第6回大会の開催権はフランスに戻り、ミシュランの地元クレルモン=フェラン周辺の周回コース (549km) で開催された。イギリス・フランス・ドイツ・アメリカ・イタリア・オーストリア=ハンガリーの6カ国18台がエントリーし、フランスのレオン・テリーが連覇を達成した。 しかし、フランス自動車連盟は各国3台までという出場台数制限に不満を抱き、第7回大会の開催義務を放棄すると宣言。1906年にはル・マン近郊[7]において初のグランプリレースとなるACFグランプリ(1906年フランスグランプリ)を開催する。これを以って、ゴードン・ベネット・カップは自然消滅する形となった。 優勝者
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |
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