コンガリー (競走馬)
コンガリー(Congaree、1998年4月20日 - 2020年11月22日)はアメリカ合衆国の競走馬、種牡馬。2002・03年のシガーマイルハンデキャップ(G1)連覇などG1競走5勝を挙げた。 経歴
出生ケンタッキー州パリスにある牧場、ストーナーサイドファームで生まれたサラブレッドの牡馬である。出生時には体重152ポンド(約68.9キログラム)と新生児の平均体重を30ポンドほど上回るほど大柄で、その出産は7人がかりで母馬から引き抜く難産であった。このため、出産した直後ながらコンガリーは肋骨に重傷を負い、45日間かけて厩舎で大事に静養された。この期間に甘やかされて育ったコンガリーは、非常に人懐っこい馬に育ったという[3]。 また、コンガリーは乳離れの頃に肺炎にかかり、このため翌年は暖かな気候のフロリダ州オカラで過ごしていた。オカラでコンガリーを繋養していたJ・B・マッカーサンは、ストーナーサイドファームの競走・血統マネージャーであったジョン・アドガーに対して直接「あれの母馬は売るなよ」と言及していたという[3]。 2歳時(2000年)ボブ・バファート調教師に預けられたコンガリーのデビュー戦は、2000年9月10日のデルマー競馬場で行われた未勝利戦(6ハロン)で、単勝オッズ3.1倍と1番人気に推されていたものの、その結果は6着であった[4]。バファートはコンガリーに素質を感じていただけにこの結果を不可解に思っていたが、その後騎手から違和感があるという報告を受けてX線撮影を行ったところ、膝に骨片が生じていることが発覚、5か月半の休養が当てられた[3]。 3歳時(2001年)コンガリーの復帰戦は2001年の2月28日で、サンタアニタパーク競馬場で行われた8ハロンの未勝利戦において、2着馬を5馬身突き放す競馬で初勝利を手にした[5]。バファートはこの勝利後にコンガリーの才能をポイントギヴン並であると言い放っている[3]。 その後同競馬場での一般戦(3月17日・8.5ハロン)において8馬身差の圧勝を見せたのち[6]、ケンタッキーダービーの前哨戦のひとつであるウッドメモリアルステークス(G2・アケダクト・9ハロン・4月14日)に登録された。この競走で1番人気に支持されていたのは、フロリダダービー(G1)優勝馬のモナーコスであった。このほかゴーサムステークス(G3)勝ち馬のリッチリーブレンディドなどを含む6頭が出走し、コンガリーは単勝オッズ2.7倍の2番人気に支持されていた[7]。この競走でスタートから飛ばしたのはリッチリーブレンディドで、大外から先頭を奪い取ると、同じく外を回るコンガリーに2馬身差をつけて先を進み、一方でモナーコスは先頭から7馬身離れた後方に待機していた。バックストレッチからコーナーに差し掛かるあたりで、コンガリーの鞍上ヴィクター・エスピノーザはコンガリーを動かし、リッチリーブレンディドのすぐ後ろにつけていった。リッチリーブレンディドは再び距離を空けるもコンガリーに再び詰め寄られ、残り5/16マイルの標識地点でついにコンガリーが先手を奪い取ると、後方のモナーコスにも鞭が入れられた。残り1ハロンの標識地点でモナーコスはコンガリーに3馬身半差まで迫ったが、コンガリーはついに捕らえられないままゴールに到達、モナーコスに2馬身3/4差をつけて重賞初制覇を飾った。勝ちタイムは1分47秒96。モナーコスから7馬身離された3着にはリッチリーブレンディドが入線した[3]。 しかし、クラシック本番のケンタッキーダービー(G1・5月5日・チャーチルダウンズ・10ハロン)では一度は先頭に立ったものの、モナーコスの追い上げに屈して4馬身3/4差の3着に敗れている[8]。続くプリークネスステークス(G1・5月19日・ピムリコ・9.5ハロン)でもポイントギヴンの3着に敗れ、三冠最終戦のベルモントステークスには出走しなかった。 コンガリーが再び競馬場に現れたのは7月15日のハリウッドパーク競馬場で行われたスワップスステークス(G1・9ハロン)においてであった。この競走でコンガリーは序盤で先頭を奪うと、そのまま効率の良いコース取りで他馬を寄せ付けないまま、2着に4馬身差をつける逃げ切り勝ちを決め、G1初制覇を成し遂げた[9]。しかし、その翌戦に挑んだジムダンディステークス(G1・8月4日・サラトガ・9ハロン)で3着に敗れ、さらにコンガリーが右前肢の膝に怪我をしていることが発覚、このため年内の休養が決定した[10]。 4歳時(2002年)この年のコンガリーの始動はやや遅く、5月27日のローンスターパーク競馬場で行われたローンスターパークハンデキャップ(G3・8.5ハロン)が年内初戦となった。この競走でコンガリーはゲートで暴れてうまく発走できなかったものの、すぐさま先頭に立って道中を進め、最後の直線ではプリンスイロコイという穴馬に迫られたが、結局そのまま一度も先頭を譲らずに優勝を手にした[11]。この年はその後スティーブンフォスターハンデキャップ(G1・6月15日・チャーチルダウンズ・9ハロン)で1番人気に支持されながらも6着、デルマー競馬場でのサンディエゴハンデキャップ(G2・8月4日・8.5ハロン)では3着と勝ちに恵まれなかったが、同競馬場9月2日のデルマーブリーダーズカップハンデキャップ(G2・8ハロン)では再び終始ハナを譲らない競馬で勝利を収めている[12][13]。この後、コンガリーの陣営は芝競走のブリーダーズカップ・マイル(芝8ハロン)を目標にし、それに向けて10月5日にはサンタアニタパーク競馬場のオークツリーブリーダーズカップマイルステークス(G2・芝8ハロン)でコンガリーを初の芝競走に挑戦させたが、7着と大敗したためブリーダーズカップ参戦は見送られた[14][15]。 この年コンガリーが最後に出走したのは、11月30日アケダクト競馬場のシガーマイルハンデキャップ(G1・8ハロン)であった。この競走ではプリークネスステークス優勝馬のレッドバレットやブリーダーズカップ・スプリント3着馬のクラフティシーティーなどが人気を集め、コンガリーは単勝オッズ5.5倍の4番人気であった[15]。レースが始まるとボナヒューという馬が先手を切り、それにクラフティシーティーが続き、その後ろにコンガリーは位置して序盤を進めていった。残り3ハロンの標識地点で前をゆくクラフティシーティーが前を空け、また後ろにいたハーランズホリデーが動き出すのと同じ頃に、コンガリーの鞍上ジェリー・ベイリーは合図を出して前に進めだした。そして6ハロン通過ところでボナヒューから先手を奪い取ると、左ムチを入れられたコンガリーは最後の2ハロンを24秒86のタイムで駆け抜けて、結果勝ちタイム1分33秒11、2着馬アルデバランに5馬身半差をつける圧勝を見せつけた[15][16]。 5歳時(2003年)この年はコンガリーにとって充実の年となった。年明けまもなくにサンタアニタパーク競馬場から始動し、1月4日のサンパスカルハンデキャップ(G2・8.5ハロン)、2月2日のサンアントニオハンデキャップ(G2・9ハロン)で2連勝を飾るスタートを見せた。春の西海岸の大一番であるサンタアニタハンデキャップ(G1・3月1日・10ハロン)にも出走し、ここではメダグリアドーロとの対決が予期されていたが、メダグリアドーロ側が回避したので対決は実現しなかった[17]。コンガリーは124ポンドのトップハンデを課されながらも単勝1.6倍という断然の1番人気に推されていた[17]。しかしこの競走を制したのは3番人気のミルウォーキーブルーで、最後の直線ではコンガリーが先頭に立っていたものの、それをアタマ差差し切って優勝をさらっていった[17]。 続いて4月12日のアケダクト競馬場で出走したカーターハンデキャップ(G1)は7ハロンの短距離戦であったが、トップハンデの122ポンドを背負いながらも、2着馬アルデバランに3馬身半差をつけて優勝、その距離適性の広さを見せた[18]。その後メトロポリタンハンデキャップ(G1・5月26日・ベルモントパーク・8ハロン)では6着と大敗したものの、ハリウッドゴールドカップ(G1・7月13日・ハリウッドパーク・10ハロン)では先行抜け出しの競馬で2着ハーランズホリデーに3馬身差をつけて優勝した[19]。 その後ターフウェイパーク競馬場のケンタッキーカップクラシックハンデキャップ(G2・9月13日・9ハロン)2着を挟んで、10月25日のブリーダーズカップ・クラシック(G1・サンタアニタパーク・10ハロン)に挑戦。一時は先頭に立っていたものの、最後の直線でプレザントリーパーフェクトらに交わされて4着に敗れた[20]。 この年最後に出走したのは前年と同じくシガーマイルハンデキャップ(G1・11月29日・アケダクト・8ハロン)であった。コンガリーは、先行するマイダスアイズという馬の後ろ2番手につけて道中を進めると、残り2ハロンのところで同馬を捕まえてそのまま差を広げ、最後には2着馬に5馬身1/4差をつけて同競走連覇を飾った[21]。 6歳時(2004年)年初はサンタアニタパークのサンアントニオハンデキャップ(G2・1月31日・9ハロン)から始動したが、勝ち馬プレザントリーパーフェクトから8馬身離された最下位4着に敗れている[22]。その後疝痛のためしばらく休養[23]、5月1日のチャーチルダウンズハンデキャップ(G2・チャーチルダウンズ・7ハロン)で復帰したものの、ここでも4着に敗れた[24]。コンガリーの陣営は、敗戦から間もない5月6日にその引退を発表[25]、その後種牡馬入りが報じられた[26]。 種牡馬入り後2005年よりケンタッキー州ミッドウェイのアデナスプリングズに繋養され、初年度の種付け料は15,000ドルに設定されていた[26]。アデナスプリングズは2009年にケンタッキー州パリに移転し、コンガリーもそちらに送られたが、2010年よりニューヨーク州のハイクリフファームに移動、種付け料も7,500ドルに下げられた[27]。2013年にはコンガリーを含むハイクリフファームの全種牡馬が、同州のミルクリークファームに移動している[28]。 その後ニューヨーク州のサラトガスタッドに繋養されていたコンガリーは、2015年にレーンズエンドファームに購入されて、そのテキサス分場へと送られた[29]。2017年にレーンズエンドファームのテキサス分場が解散したのちは、テキサス州パイロットポイント近郊のヴェーラーファームに繋養されていたコンガリーであったが[30]、老衰のため2020年11月22日に安楽死の処置がとられた。22歳であった[2]。 主な産駒
母父としての産駒血統表
脚注注釈出典
|