コブラ・レコード
コブラ・レコード(Cobra Records)は、アメリカ合衆国のシカゴを拠点とした独立系レコードレーベルである。活動は1956年から1959年までの3年と短期間ながら、オーティス・ラッシュ、マジック・サム、バディ・ガイ等、いわゆるウェスト・サイド・サウンドと称される新世代のシカゴ・ブルースのアーティストたちのキャリアを立ち上げることに貢献した[1]。 概要コブラは1956年8月、イーライ・トスカーノ(1924年4月17日-1967年9月21日[2])がプロモーターのハワード・ベドノ(1918年5月26日-2006年5月15日[3])の支援を受けてシカゴのウェスト・サイドに設立した。トスカーノはテレビの販売と修理、レコードの販売を行なうA.B.ワン・ストップの店主で、コブラを立ち上げる直前の1956年1月にはジョー・ブラウンと共同でアブコ(Abco)・レコード(アレン・クレインのAbkco Recordsとは無関係)を立ち上げていたものの、数ヶ月の短命に終わっている[2][4]。トスカーノはアブコでの失敗の経験から、ウィリー・ディクスンに一緒に仕事をするよう声をかけた[5]。チェス・レコードでの待遇に不満を抱いていたディクスンはコブラ入りし、タレント・スカウト、プロデューサー、アレンジャー、ソングライター、ベーシストとして仕事をした。彼は、コブラ・レコードの芸術的ビジョンを担当したのであった[6]。 コブラで最初にレコーディングを行なったのはオーティス・ラッシュである。ディクスンはチェスに売り込み断られたラッシュをコブラ入りさせたのであった[7]。ラッシュの最初のセッションは1956年7月11日に市内のブルヴァード・スタジオで行なれたが、この時点ではまだコブラは設立されておらず、アブコ名義でのセッションであった[2]。 この際にレコーディングされた「I Can't Quit You Baby」は同年シングル・リリースされ、6週間に渡ってビルボードのR&Bチャート入り。最高位6位を記録した[8]。ラッシュは、以後更に7枚のシングルをコブラにレコーディングし、これらの作品は「シカゴ・ブルースの決定的な瞬間」と評された[9]。1957年、マジック・サムが彼の代表曲「All Your Love」をレコーディング。翌年にかけてこの曲を含む4枚のシングルをコブラからリリースした。 コブラ設立当初のレコーディング・セッションはブルヴァード・スタジオで行なわれていたが[7]、トスカーノは経費の節約のために自らの小さなスタジオを作った[10]。 1956年から1958年の間に、コブラは更にアイク・ターナーを含む何人かのブルースのアーティストのシングルをリリースしている。しかしながら、世界的な景気後退の影響に加えトスカーノのギャンブル癖が祟り1958年には経営状況は悪化していた。同年ベドノが辞任してチェスに移りトスカーノはこれを機にアーティスティック・レコードをコブラ傘下に立ち上げた。ディクスンはバディ・ガイをトスカーノに紹介し、彼はアーティスティックから2枚のシングルをリリース、翌1959年にかけてアーティスティックは他4枚のシングルをリリースしているが会社の財政状況は行き詰まり、1959年8月に倒産した[10]。 コブラで使用していた事務所とスタジオについてはラジオ局WGESのDJのリチャード・スタムズが引き取り、パソ・レコードを立ち上げた[10]。同レーベルからはコブラのアーティストだったハロルド・バラージらが1960年から61年にかけてシングルをリリースしている[11]。 トスカーノは、1967年9月21日死去。ミシガン湖で水死体で発見されボート事故とされているが[7]、ギャンブル関連でギャングに殺害されたとする説もある[10]。 その後、コブラの音源はジュウェル/ポーラ/ロン・レコードのスタン・ルイスによって買収された。殆どのコブラ(およびアーティスティック)の音源(いくつかの別テイク、アウトテイクを含む全57トラック)は1993年、キャプリコーン・レコードによって『The Cobra Records Story: Chicago Rock and Blues 1956–1958』と題したコンピレーション・アルバムでリリースとなった[6]。2013年には、コブラ音源の40曲が『Double Trouble: The Cobra Record Story』と題した2枚組のCDでリリースされている[12]。 ディスコグラフィーコブラ・レコード[13]
アーティスティック・レコード[15]
アブコ・レコード[16]
脚注
参考文献
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