グーベン協定
グーベン協定(グーベンきょうてい、英: )は、七年戦争中の1759年8月22日にオーストリア軍とロシア軍が結んだ協定である。 関連項目協定締結の経緯クーネルスドルフの勝利の後、ロシア軍の指揮官ピョートル・サルティコフは本国の女帝エリザヴェータに以下のように報告した。
実際、この戦いでは連合軍側も死傷者1万6千を出しており、その損害は大であった。また、この戦争において両国の間には少なからず衝突があり、ロシア軍ではオーストリア軍にいいように利用されているとの不満をもち、一方でオーストリア軍のほうでもロシア軍がいつ同盟を反故にしてプロイセンと結ぶかわからないという警戒があった。このようなことは両軍の共同作戦を困難なものとした。もう1つの同盟国であるフランスから派遣されていたモンタランベール侯はロシア軍の陣営を訪れた時の様子を以下のように報告した。
そして実際のところ両軍は「プロイセン王を怖がっているのだ」とも付け加えた 協定の内容8月22日、サルティコフとオーストリア軍の最高指揮官レオポルト・フォン・ダウンはグーベンで会見をもち、グーベン協定を結んだ。その内容は、両国が単独講和しないことを再確認するとともに、ロシアは東プロイセンを得、オーストリアはシュレージェンを回復することを互いに承認して、オーストリア軍のシュレージェン攻略を優先してベルリン攻撃はしないというものであった。これは、ロシアが勢力均衡の考えからプロイセンの滅亡を望まず、オーストリアはオーストリアで、ロシアがもし大王と交渉して東プロイセンの割譲を得るようなことがあったら、すぐにでも同盟を破棄してしまうだろうと考えていたことから導かれたものであった。 条約締結の結果シュレージェンのダウン軍はサルティコフ軍の南下に合わせて北上し、妨害するプロイセン軍を排除してシュレージェン占領に着手する計画であった。しかし、ハインリヒ軍がダウンをよく阻止したこともあって、ダウン軍は方針を変えてザクセンに転進してしまった。サルティコフはダウンの協定違反に怒り、もしくはそれを口実にしてシュレージェン進出を中止、ポーランドへ引き返した。大王は再編成した軍を指揮して南下するロシア軍の後を追うつもりだったが、ロシア軍のポーランドへの撤退を知ってこれを中止した。ブランデンブルクもシュレージェンも一息つくことができたが、しかし今度はザクセンが危機に陥ったため、大王は救援のためザクセンに向かった。 脚注 |
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