グリューンベルク
グリューンベルク (ドイツ語: Grünberg, ドイツ語発音: [ˈgryːnbɛrk][2]) は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州ギーセン郡に属す市である。本市は州が指定するルフトクアオルト(空気の清浄な保養地)である[3]。 地理フォーゲルスベルク山地北西部のわずかな部分がグリューンベルクの市域に含まれる。本市を北から南にエッシャースバッハ川が流れている。 隣接する市町村グリューンベルクは、北はホムベルク (オーム)、北東はミュッケ、東はウルリヒシュタイン(以上、いずれもフォーゲルスベルク郡)、南はラウバッハ、西はライスキルヒェン、北西はラーベナウ(以上、ギーセン郡)と境を接している。 市の構成グリューンベルクは、中核市区とその他の 13市区からなる。本市に属す市区は以下の通りである。
歴史中世テューリンゲン方伯ルートヴィヒ3世は、12世紀末頃、敵対するマインツ大司教から領土の南部を護るためにグリューンベルクを建設した。それは、三方が急な下り斜面になった平地上にあり、戦略的に極めて好立地であった。グリューンベルク城 (Castrum Gruninberc) は1186年に初めて文献に記録されている。グリューンベルクは、1222年に初めて「シュタット」(都市)と呼ばれている。 1195年にマインツ軍がこの城を破壊した。城は速やかに再建された。今度は初めから、都市を取り囲むような、より大きな城が計画された。1222年にはすでにグリューンベルク市の権利に関する書面が作成され、方伯のものと類似した印章が使用された。 市壁内の、急峻な南斜面近くに方伯の城があった。市民の居住地域はこれに隣接していた。比較的防御の薄い北部には修道院があった。何者かがこの街を攻撃しようとすれば、真っ先に修道院を破壊する必要があった。しかしこれは、破門という結果を引き起こした。 おそらく1193年頃に創設されたアントニウス会グリューンベルク修道院は、この街で最も古く、最も重要なものの一つであった。1200年頃には、施療院をもつ簡素な修道院に過ぎなかったが、2本の主要な交通路に近いという戦略上の好立地のため、時代とともにやがてアントニウス修道会総長の所在地にまで発展した。子修道院の設立により、その影響地域は、最大時にはヘッセンのフリートベルクからベルゲン(ノルウェー)のノンネゼーター修道院まで、ヴェッツラーから現在のラトビアにあったリェルヴァーデ にまで及んだ。最初の支部修道院は、1222年6月7日にヴィスマール近郊に設けられたテンプツィン修道院である。 そのやや後にフランシスコ会もグリューンベルクに定住した。 1230年にはすでにグリューンベルクに貨幣鋳造所があった。グリューンベルクは、1254年にマールブルクやアルスフェルトなど多くの大都市とともに「ライン都市同盟」に加盟した。 1272年10月16日にヘッセン方伯ハインリヒ1世はグリューンベルクに特許状を発し、その都市としての諸権利を保証した。彼はすべての市民に自由を与え、裁判権を彼らの下に置いた。 都市は発展した。13世紀末にゴシック様式のマリエン教会が建設された。この教会はマールブルクのエリーザベト教会をモデルとしている。1304年には市壁の前に建設されたノイシュタットが初めてこの名前で呼ばれている。1324年にこのノイシュタットも包含する新しい防御壁が建設された。1353年に市は最初の学校を完成させた。 市民の精励は、間違いなくこの街の富の源泉であった。しかし、より重要だったのはフランクフルト・アム・マインからドイツ中部への主要交易路沿いという立地条件であった。この街道は「クルツェ・ヘッセン」あるいは「ホーエ・シュトラーセ」と呼ばれた。1370年と1391年の 2度の大火が市のほぼ全域を廃墟に化した。方伯の援助により再建は急速に進行した。しかし、グリューンベルクがかつての重要性を獲得することはなかった。 1419年に、この街に集約的な上水供給システムが設けられた。これには当時としては最新の技術が盛り込まれた。深さ 60 m の泉の谷から原水が機械的に汲み上げられ山上に運ばれた。皇帝フリードリヒ3世は、1481年に年に1度、8日間のガルスマーケットを設けた。この街では10月16日が聖ガルスを記念する日と定められていた。これは1272年に特許状で認められていた。ガルスマーケットは現在でも毎年開催されている。 歴史的名称この街は、歴史資料中、時代によって様々な名称で記録されている[4]。
近世から現代グリューンベルクも1524年から1527年までの間にルター派に改宗され、ヘッセン方伯フィリップ1世は修道院を廃止した。彼は1578年から1582年にアントニウス会修道院をエーベルト・バルデヴァインに未亡人の居館(現在の城館)に改築させた。この際、2本の美しいルネサンス様式の張り出し部が造られた。敷地内には大学が設けられた。アウグスチノ会女子修道院は市立病院となった。(2005年10月にこの建物内に民族学者テオドール・コッホ=グリューンベルクの全コレクションを収めた市史博物館が開館した。)この頃、市はさらに2人の教師を雇い入れ、少女も初等教育を受けられるようになった。 1526年に建設された大学の建物はオーバーヘッセンで最も高い木組み建築であった。マールブルク大学はペストが流行した1542年にこの建物に疎開している。 グリューンベルクは、1567年の領邦分割によりヘッセン=マールブルク方伯領となり、1604年にヘッセン=ダルムシュタット方伯領となった。 1593年には 432人の市民がこの街に住んでいたが、三十年戦争とペスト禍によってわずか 220人にまで減少した。市参事会は、空き家のまま放置された家屋 100軒以上を取り壊させた。 この街は復興に長い時間を要した。政治的にも経済的にも中心地は他に移転していたため、グリューンベルクはオーバーヘッセンの典型的な農民都市に発展した。18世紀初めに建設されたバロック様式の墓地教会はこれをはっきりと示している。1816年にこのゴシック教会は倒壊したのだが、市が新しい教会堂の建設を始めたのは1846年になってからであった。この時、借金を 20年以内に半減させる賢明な計画が採られた。 19世紀になるとグリューンベルクは再びかつての重要性を回復した。1832年から1874年までグリューンベルクは郡庁所在地となった。経済基盤はもはや交易路沿いの立地ではなく、地元の手工業、特に織物と製靴業にあった。1869年、フォーゲルベルク鉄道の開通によりグリューンベルクは鉄道網に接続し、19世紀末には織布工場が進出した。 この街の都市計画については、1896年に屋内配管を含む近代的な上水道が設けられ、1913年には電灯を点す電力網が敷設された。その後数十年間で学校やプールなど、その他の公共施設が建設された。その後都市構造は保たれていたが、2度の空爆によって1945年に数多くの建物が破壊され、150人の市民が死亡した。 戦後 800人以上の難民や追放された人々がこの街に移り住んだため、住居が可及的速やかに建設された。その後すぐに工業地域も整備された。木組み建築が遺るグリューンベルクの旧市街は1969年以後大規模な改修工事が行われた。現在この旧市街は、緑の山の上にある、まとまった佇まいの住宅・商業地域となっている。グリューンベルクは1980年に「ヘッセンの日」の開催地となった。1983年からは、州指定のルフトクアオルト(空気の清浄な療養地)になっている。ギムナジウム教師で年代記者のカール・グラーザーは、1845年にすでにこう記述している: 「我々の街の空気は澄みきっている。人々は、ここでは何年もの間疫病が起こっていないことを知っている。ここグリューンベルクの気質は、飾り気ないが、真心がある」 ヘッセン州の地域再編に伴い、それまで独立した 13の町村がグリューンベルクと合併し、現在その市区となっている。
2007年から、市は唯一の博物館「ムゼウム・イム・シュピタール」を有している。この博物館は、グリューンベルクの市の歴史を紹介しており、本市で最も有名な人物である民俗学者テオドール・コッホ=グリューンベルク(1872年 – 1924年)の生涯と業績を展示している。 行政議会2011年3月27日の選挙以後、この街の市議会は 37議席で構成されている[6]。 首長フランク・イーデ (FW グリューンベルク) は2015年6月14日の選挙で 71.8 % の信任票を獲得した。この選挙の投票率は 36.4 % であった[7]。彼は2015年12月2日から6年間、3期目の市長を務める予定である。 姉妹都市文化と見所見所
経済と社会資本交通グリューンベルクにはアウトバーン A5号線のインターチェンジがある。グリューンベルク、ゲーベルンロート、レーンハイム地区にはフォーゲルスベルク鉄道の駅がある。さらに中核市区は、「デ・クレーネ・グリミッヒャー」と呼ばれる市バスシステム沿いにある。この市バスシステムは、オーバーヘッセン交通協会の 71系統、72系統で構成されている。 教育
人物出身者
ゆかりの人物
引用
外部リンク |