グスタボ・A・マデロ (メキシコシティ)
グスタボ・A・マデロ(スペイン語: Gustavo A. Madero)は、メキシコシティを構成する16の管轄区域のひとつである[2]。メキシコシティの北東端にあたる。アステカ時代に女神トナンツィンの聖地であるテペヤックの丘があり、テノチティトランから堤道が築かれた。スペイン植民地時代にはグアダルーペの聖母が信仰された。かつてグアダルーペ・イダルゴと呼ばれていたが、1931年に現在の名前になった[3]。 多数のスポーツ施設、メキシコ国立工科大学、メキシコ国立自治大学のいくつかのキャンパス、およびサン・フアン・デ・アラゴン公園などの娯楽施設がある[3]。 名称現在の名前はメキシコ革命の政治家で、フランシスコ・マデロ大統領の弟であるグスタボ・A・マデロを記念してつけられた。古くはテペヤック(ナワトル語で「丘の鼻の場所」)として知られ、その後グアダルーペの聖母の出現とミゲル・イダルゴを記念してグアダルーペ・イダルゴと呼ばれた。 地理グスタボ・A・マデロはメキシコシティ北東端に位置し、面積は95平方キロメートルである。北と東はメヒコ州との境をなす。南はベヌスティアーノ・カランサおよびクアウテモク、西はアスカポツァルコに接する[4]。大部分の土地は平坦で、平均標高は2,240メートルだが、北部のメヒコ州との境はグアダルーペ山地の一部をなし、約2,900メートルに達する。 人口2010年の人口は1,185,772人で、イスタパラパに次いで2番目に多い[1][リンク切れ]。市街地の人口密度は1平方キロメートルあたり13,599人で、メキシコシティで5番目に多い[5]。 見どころ
イベントグアダルーペの聖母が出現した12月12日がもっとも重要な祭であり、メキシコ各地から何百万人もの巡礼者が訪れる。 プエブロ・サン・フアン・デ・アラゴンの住民は、1862年5月5日のプエブラの会戦でイグナシオ・サラトガ将軍がフランス軍を破った様子を毎年再現する。 歴史テスココ湖の岸には紀元前からすでに人が住んでいた。アステカ時代の15世紀にはテノチティトランと女神トナンツィンの聖地であるテペヤックの丘を結ぶ堤道が築かれたが、現在のミステリオス道路にあたる。スペイン植民地時代にはグアダルーペの聖母の寺院が信仰された。またメキシコシティとベラクルスを結ぶ街道の入口がビジャ・デ・グアダルーペにあったため、首都を訪れる旅行者や商人は必ずここに宿泊した。 18世紀にはグアダルーペ水道が開通した。1751年6月24日に町はビジャ・デ・グアダルーペと呼ばれるようになった。1828年にビジャ・デ・グアダルーペ・イダルゴ(当時の名称)は市(ciudad)に昇格した。1848年にここでグアダルーペ・イダルゴ条約が締結された。 1928年にメキシコシティ連邦区には13の区が成立したが、グアダルーペ・イダルゴはそのひとつだった[7]。1931年にグスタボ・A・マデロ区に改められた[3]。 脚注
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia