クロタール2世 (フランク王)
クロタール2世(クロタール2せい、Chlothar II, 584年 - 629年10月18日)は、メロヴィング朝の3代目統一王(在位:613年 - 629年)。キルペリク1世の八男で末子[1](フレデグンドの子としては五男で末子)。 生涯584年に彼の父であるネウストリアの王キルペリク1世が死去し、ネウストリア王位を継承したが、彼は生後4ヶ月であったため[2]、597年まで彼の母であるフレデグンドが摂政をしていた。また、伯父ブルグント王グントラムが後見人となっていた[3]。 599年、いとこのアウストラシア王のテウデベルト2世、ブルグント王国のテウデリク2世と戦った。テウデリク2世とは度々戦ったが、613年テウデリクは死去している[4]。ブルグントはテウデリクの息子シギベルト2世が継承したが、シギベルドの曽祖母であるブルンヒルドが支配していた。 613年にブルンヒルドとの戦いに勝利し、フランク王国を統一[4]。パリへ遷都。ブルンヒルドは捕らえられ処刑された[4]。 614年10月18日にパリ勅令を発布[5]。各分王国の貴族の要求を受け入れる形で、宮宰へ権限を委任[5]。また教会へ裁判特権を与えた。 623年にアウストラシア貴族からの要請を受け入れ、息子ダゴベルト1世をアウストラシア王とした[6]。また、ピピン1世をアウストラシアの宮宰に任命したが、アウストラシア王国の実権を握っていたピピン1世およびメッス司教アルヌルフはダゴベルト1世を操ることで権力の維持をはかったとされる[6]。 629年、クロタール2世は死去し、ダゴベルト1世がアウストラシアに加え、ネウストリア・ブルグント王位も継承し王国は統一された[7]。また、ダゴベルト1世は異母弟カリベルト2世をアキタニア王とした。 子女
脚注参考文献
関連項目
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