クレムリンの壁墓所クレムリンの壁墓所(くれむりんのかべぼしょ、ロシア語: Некрополь у Кремлёвской стены、英語: Kremlin Wall Necropolis)はロシア・モスクワにある「赤の広場」のクレムリンの壁に沿って作られた墓所である。 モスクワの「クレムリンの壁」墓所への埋葬は、1917年11月に10月革命の240人の親ボリシェヴィキの犠牲者が「赤の広場」に集団埋葬された時に始まった。1921年に行われた最後の集団埋葬の後、赤の広場での葬儀は通常の場合は国家の儀式として行われ、著名な政治家や軍事指導者、宇宙飛行士、科学者に対する最後の名誉な行事として扱われた。墓所は主に、レーニン廟(1924年に木材で建てられ、その後花崗岩で建て直された)の両側に存在している。 1925年から1927年にかけて、地中への埋葬は中止されて、葬儀はクレムリンの壁自体に焼却灰の埋葬として行われた。しかし地中への埋葬は、1946年にミハイル・カリーニンの葬儀で再開された。赤の広場で高官を葬る習慣は1985年3月のコンスタンティン・チェルネンコの葬儀まで続いた。 埋葬者レーニン廟の裏にある革命元勲墓には現在12人が埋葬されている。
クレムリン城壁に埋葬されている納骨者一覧
クレムリン城壁墓地は、左右合わせて計115人が納骨されている。納骨者のうち101人がロシア帝国出身だが、残る14人はRSFSR含むソ連出身、7人が外国出身である。役職別で一番多く納骨されているのはソ連邦元帥で、14人納骨されている。 主な歴史1919年にヤーコフ・スヴェルドロフが埋葬され、その後ミハイル・フルンゼ、フェリックス・ジェルジンスキー、ミハイル・カリーニン、アンドレイ・ジダーノフの5名が同所に埋葬。その後クレムリンの墓所を整備するにあたってセルゲイ・メルクーロフの手による胸像と墓碑が設置された。 死後に防腐処置を施されレーニン廟に遺体が安置されたヨシフ・スターリンは、ニキータ・フルシチョフによるスターリン批判の煽りを受け遺体が火葬された後、この地に埋葬されている。 その後、クレムリンの壁墓所に葬られる名誉に付された政治家・革命家・軍人の中でも、とりわけ重要人物とみなされた者がこの地に遺体が埋葬されることが暗黙の了解となり、国家元首である最高会議幹部会議長を務めたクリメント・ヴォロシーロフ、初のソ連邦元帥であるセミョーン・ブジョーンヌイ、党第二書記として強大な影響力を保持し「クレムリンのキングメーカー」との異名を取ったミハイル・スースロフ、そして最高指導者たるソ連共産党書記長を務めたレオニード・ブレジネフ、ユーリ・アンドロポフ、コンスタンティン・チェルネンコが埋葬された。 その一方重職を経験しても失脚した人物は決してクレムリンで埋葬されず、何れも首相経験者だったヴャチェスラフ・モロトフやゲオルギー・マレンコフ、ニキータ・フルシチョフ、最高会議幹部会議長を務めた後に引退に追い込まれたアナスタス・ミコヤン、ニコライ・ポドゴルヌイ、ソ連最初で最後の大統領であるミハイル・ゴルバチョフは、いずれもノヴォデヴィチ女子修道院の墓地に埋葬されている。1989年7月にアンドレイ・グロムイコが死去した際には、グロムイコが最高会議幹部会議長経験者ということもありクレムリンへの埋葬をソ連政府が提案したものの、家族がこれを断りノヴォデヴィチ墓地に埋葬されている。 脚注関連項目外部リンク |
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