クルムバッハ
クルムバッハ (ドイツ語: Kulmbach, ドイツ語発音: [ˈkʊlmbax][2]) は、ドイツ、バイエルン州オーバーフランケン行政管区にあるクルムバッハ郡に属する大規模郡都市であり、同郡の郡庁所在地である。 バイロイトの北西、白マイン川沿いに位置している。この街はビールと粗挽きソーセージ(ブラートヴルスト)、それにプラッセンブルク城で知られている。城内には世界最大の錫人形コレクションを誇る錫人形博物館がある。 地理市の構成本市は、公式には76の地区 (Ort) からなる[3]。このうち小集落や孤立農場などを除く集落を以下に列記する。
歴史西暦900年頃には、現在のシュピーゲル地区に小さな集落があった。この地は林業の拠点であると同時に、マイン川渡河に対する防衛の前線拠点であった。この地は後にシュヴァインフルト伯の手に渡った。 クルムバッハの名は、1028年から1040年頃に書かれたアルクィンの聖書に「Kulma」として記載されており、これが最も古い史料である。この名前は、この地を流れ下る小川の名前(Culmin-aha, Culmna)に由来する。しかし、この小川は、後に誤解からKohlenbach(コーレンバッハ、炭の川)と改名されてしまった。 シュヴァインフルト伯家の断絶に伴い、クルムバッハは女性相続者ギーゼラによってディーセン=アンデクス家のディーセン伯アルノルトのものとなった。ディーセン伯はさらにクルムバッハの周辺地域をも手に入れ、12世紀の前半に最初のプラッセンブルク要塞と現在「オベーレシュタット」(上の町)と呼ばれている市場および教会を建設した。アンデクス家は、1180年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によって帝国諸侯に採り上げられ、ヴェネツィアとトリエステの間に所領マラノ(現在のイタリア、ウーディネ県マラーノ・ラグナーレ)を与えられてメラニア公となった。1231年頃、クルムバッハは都市権を獲得した。現在ではその所在地が分からなくなってしまった古いプラッセンブルク要塞の代わりに、公爵は、クルムバッハにそびえるベルクシュポルン(シュポルン山)上に新しい城を建設した。最後のメラニエン公オットー2世が1248年に子供を遺さずに亡くなり、メラニア公爵家は断絶した。 ![]() 長年にわたる相続争いの後、1260年、プラッセンブルク城主、すなわちクルムバッハの領主にテューリンゲンのオーラミュンデ伯が就いた。オーラミュンデ伯は新しいプラッセンブルク城を完成させ、ヒンメルクロン修道院を創設した。しかし最後にはこの城と町を借金の担保にしてしまった。1340年に最後のオーラミュンデ伯が亡くなると、クルムバッハとプラッセンブルク城は、契約によりホーエンツォレルン家一門のニュルンベルク城伯のものとなった。この後17世紀まで、プラッセンブルク城は城伯の宮廷所在地、あるいは後にはホーエンツォレルン家のクルムバッハ侯領(ブランデンブルク=クルムバッハ侯領、1604年以降はブランデンブルク=バイロイト侯領ともいう)の首都であった。 バンベルク、ニュルンベルク、エーガー(現在のチェコ領ヘプ)、ホーフ及びライプツィヒを結ぶ古い通商路沿いという地の利からこの町は貿易が盛んで、織物、フスティアン織り、染色、絹刺繍などのツンフトが形成された。土地、家、税などが記録された城伯家の目録から推計すると、1398年にはクルムバッハに1,500人から2,000人ほどの人口があった。領主の家宰、市長、有力市民から成る議会によって運営されていた。 1363年の侯爵特権および1415年の選帝侯権とブランデンブルク辺境伯領の付与を承けて、フランケン地方のホーエンツォレルン家支配地は「ブランデンブルク=クルムバッハ」と改名された。1411年から1529年までクルムバッハの家宰(フリードリヒ・ゼッセルマン、ジギスムント・ツェーラー及びゼバスティアン・シュトゥプリンガー)は、ブランデンブルク辺境伯領の統治の最高位の地位を保った。 1430年1月31日にはフス派が町に火をつけ略奪を行った。手ひどく破壊された町を復興する時、ペテロ教会もネオゴシック様式で再建され、アンスバッハ辺境伯ゲオルク(アルブレヒト・アルキビアデスの叔父、後見人)の治下、1528年に福音派の礼拝が認められた。 成人して単独統治者となったアルブレヒト・アルキビアデスは彼の支配下にある全フランケン所領を合併させフランケン公国を創設した。これにより、彼はバンベルクおよびヴュルツブルク司教を敵に回し、帝国都市ニュルンベルクも彼らと同盟して抵抗した。ブンデスシュテンディッシェン戦争(第二次辺境伯戦争)と呼ばれるこの戦いで、1553年11月26日、クルムバッハはコンラディターク同盟軍(聖人コンラート・フォン・コンスタンツにちなんで命名された)に占領され、略奪を受けた。1554年10月21日には、敵の占領に耐えてきたプラッセンブルク城も火災に巻き込まれ、破壊されてしまった。この戦いの様子は、錫人形博物館にジオラマで再現されている。 行政上級市長
友好都市
余暇、文化、見所
博物館![]()
建造物![]()
「白い女」伝説オーラミュンデ家最後のプラッセン城主オットー6世の妻クニグンデは、夫の死後、ニュルンベルク城伯アルブレヒトに恋をし、再婚を申し込んだ。アルブレヒトはこれに対して、「2対の目が結婚を妨げている」と応えた。クニグンデは、「2対の目」とは前夫との間に生まれた3歳の息子と2歳の娘のことに違いないと思いこみ、子供2人を殺害してしまった。彼女はニュルンベルクへ行き、「2人の子供は病気で亡くなった。妨げる者はもういない。」と彼に告げた。しかしアルブレヒトは、「妨げているのは自分の両親で、親の反対を押し切ってまで結婚するつもりはない」とクニグンデの申し出を断った。クニグンデは、絶望し、女子修道院に入るが、間もなく亡くなった。しかし亡くなった後も、悔恨のあまり、その魂は自ら子供を殺めたプラッセンブルク城に舞い戻り、城の中を歩き回った。この時彼女の霊は白い服の女として現れたため「白い女」の伝説として語り継がれた。 この話には後日譚がある。ブランデンブルク辺境伯時代のある城主が白い女に遭遇し、斬りつけた。翌朝、現場の中庭に家来が1人、斬られて死んでいた。この家来は、城主の傲慢さをいさめようと、白い女に扮して驚かせ、城主が怯えたところで語り諭そうと考えたのだという。この他にプラッセンブルク城の記録には白い女が現れたと記録が複数回遺されている。 人物出身者
名産品オーバーフランケンの特産であるクルムバッヒャー・ブラートヴルスト(クルムバッハ風ソーセージ)は、子牛肉を多めに混ぜた良質の豚挽肉からできており、アニス・シュトレンを添えることで、最も味が引き立つと言われている。クルムバッヒャー・ブラウエライ株式会社(クルムバッハ・ビール醸造所)で製造されるシュタルクビーアEKU28(このビールは長年、世界で最も強いビールとされている)も市境を越えて広く知られている。 引用
参考文献
日本語版参考資料
外部リンク
以上はいずれもドイツ語サイト。 注: 上記の参考文献(日本語版参考資料を除く)・外部リンクは、ドイツ語版に挙げられていたものであり、日本語記事作成に際して直接参照してはおりません |
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