クバーニ・コサック軍
クバーニ・コサック軍(ウクライナ語:Кубанське козаче військо;ロシア語:Кубанское казачье войско[2])は、1860年から1920年までクバーニ地方に存在したコサック軍の一つ。ザポロージャ・コサックの系統を受け継ぐウクライナ系黒海コサック、ドン・コサックの系統を受け継ぐロシア系カフカース防衛線コサック、並びにカフカースの諸民族出身の軍人から編成されていた。ロシア帝国によるカフカース地方の植民地化において先導的役割を果たした。 構成黒海衆クバーニ・コサック軍の中枢をなしていたのは、ザポロージャ・コサックの末裔、「黒海衆」とよばれるコサックであった。本来のザポロージャ・コサックは、ドニプロー川の下流、ウクライナ中部に在住しており、18世紀初に自治権を保ちながら、ロシア帝国の保護下に置かれていた。しかし、18世紀後半にロシアがポーランド・リトアニア共和国とクリミア・ハン国を滅ぼすと、ロシア政府はコサックの自治権を侵害しつつウクライナ中部・南部の植民地化政策を実行しはじめた。ロシアの政策に対してコサックは反発したものの、1775年にロシア女帝エカチェリーナ2世はザポロージャ・コサックの本拠地を占領し、コサックの自治権を廃止した。コサックの大部分は帰農させられたが、3割のコサック(5千人)はオスマン帝国の領内、ドナウ川の川口へ逃亡し、1778年にオスマン帝国の保護を受けてドナウ・コサック軍を創立した。1787年に露土戦争が勃発すると、アンチン・ホロヴァーティイ、ザハーリイ・チェプィーハ、スィーヂル・ビールィイといったコサック長老をはじめ、数千人のコサックは、ロシアによるウクライナ・コサック復帰の約束を受け入れてロシア側に寝返り、ロシア政府は彼らをもって「忠義なるザポロージャ・コサック軍」を編成した。翌年、そのコサック軍は「黒海コサック軍」に改名され、1792年にノガイ・タタール人ならびにチェルケス人の居住地域、北カフカースと接しているクバーニ地方へ移住させられ、クバーニ西部の防衛と開発を任された。コサック軍は常にウクライナからの移民によって強化されており、1860年にクバーニにおけるウクライナ系コサックの人口は20万人まで達した。彼らはクバーニ地方の西部と中部(イェセーイ地区、エカテリノダール地区、テムリューク地区)を中心に居住し、ウクライナ語をはじめ、多くのウクライナの風習を守っていた。 防衛線衆クバーニ・コサック軍における二番目の要員は、ドン川の支流、ホピョール川の周辺に居住した、ドン・コサックの一派とされるホピョール・コサックであった。彼らは1696年、露土戦争でロシアのピョートル1世のために戦ったが、1708年に反ロシアのブラーヴィンの乱に参加にしたことによってピョートル1世から弾圧を受けて滅亡した。18世紀半ばにホピョール・コサックはロシア帝国によって再編成されてカフカースへ移住され、スタヴロポリ要塞を建設してカフカースの現地民と戦った。更に、このコサックは1828年にクバーニ地方、クバーニ川の上流へ移住され、1832年にカフカース防衛線コサック軍に改名され、「防衛線衆」と呼ばれるようになった。1860年に彼らは黒海コサック軍と共にクバーニ・コサック軍へ再編成され、クバーニ東部(カフカース地区、ラビン地区、マイコープ地区、バタルパシャー地区)を中心に住んでいた。 その他クバーニ・コサック軍には「黒海衆」と「防衛線衆」の他に「付加コサック」という両グループに属さない者もいた。彼らの中には、自由農民、陸軍の旧将兵、カフカースの諸民族の代表(チェルケス人、チェチェン人など)などが含まれていた。 組織ロシア帝国におけるクバーニ・コサックは、他のコサックと同様に農業を営み、軍役の義務がある非課税階級をなしていた。クバーニ・コサック軍の棟梁はコサックが選挙する軍のオタマン(大将)であったが、19世紀後半にはロシア皇帝が任命する任命オタマン兼クバーニ州知事となった。その任命オタマンは州内の地区のオタマンたちを任命し、地区のオタマンたちはコサック集落(スタヌィーツャとフーチル)の選任オタマンたちを部下にしていた。集落の最高機関は集落会であり、その集落会でオタマン・副オタマン・裁判官・書記官・大蔵官といった集落役員が選ばれた。コサックは軍役の他に交代制で郵便役、道路・橋の修理役、警備役、警察役などを務めた。 1914年の直前には、クバーニ・コサック軍の人口は、約500の集落に居住する130万人のコサックとコサックの家族の一員(クバーニの人口の4割)からなっていた。また、クバーニ・コサック軍はクバーニ州とともに7つの地区(オトデール)に分かれていた。
歴史18世紀
19世紀
日露戦争
第一次世界大戦
ロシア革命と内戦
クバーニの独立とソ連への編入
第二次世界大戦
ソ連崩壊以後
脚注
参考文献
外部リンク |
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