ギルバート・マリー![]() ![]() ギルバート・マリー OM FBA(英: George Gilbert Aimé Murray、1866年1月2日 - 1957年5月20日[4])は、イギリスの西洋古典学者。古代ギリシアの宗教やギリシア悲劇を研究した。劇作家や平和運動家としても活動し[6][7]、国際連盟の役員も務めた[7][4]。 人物1866年、英領オーストラリアのシドニーにて、アイルランド系の父のもと生まれる[7]。 11歳のとき渡英し、マーチャント・テイラーズ・スクールを経て、オックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジに入学[7]。アーサー・シジウィックらに師事し、古代ギリシア語・ラテン語の作文や文献学で頭角を現す[7][6]。 卒業後、オックスフォード大学ニュー・カレッジ特別研究員に就任[7]。翌1889年、23歳の若さでグラスゴー大学ギリシア語教授に就任(前任はリチャード・ジェッブ)[7][6]。 1897年、31歳のとき、自身と夫人の健康のため退職[6]。離職中は劇作家として活動し[6]、ギリシア悲劇の翻訳劇が英米の劇場で上演され好評を受ける[7]。 1908年、オックスフォード大学ギリシア語欽定講座教授に就任、1936年まで務めた[7]。その間、大英博物館管理官やハーバード大学教授も兼任した[7]。 平和運動家としてボーア戦争や第一次世界大戦の拡大に反対した[7]。イギリス外務省の委嘱により、国際連盟規約案の作成に関わった[7]。イギリス国際連盟協会議長、知的協力国際委員会(ユネスコの前身)会長なども務めた[7][4]。1910年イギリス学士院フェロー[8]、1941年メリット勲章[9]。 バーナード・ショウやバートランド・ラッセルら多くの著名人と親交した[6]。新渡戸稲造やアンリ・ベルクソンとも親交し、国際連盟や心霊現象について意見交換した[10][11]。マリーは心霊現象研究協会の会長も務めていた[11]。 指導学生にE・R・ドッズ[12]、娘婿にアーノルド・J・トインビーがいる[5]。 1957年没、享年91[7]。ウェストミンスター寺院に墓がある[9]。 学問ハリソンやコーンフォードと、ケンブリッジ学派[13](ケンブリッジ・リチュアリスト)を構成した。ハリソンの影響のもと、ギリシア悲劇の起源を祭祀とする立場をとった[6]。 主著『ギリシア宗教発展の五段階』では、古代ギリシアの宗教の歴史を、非合理的な多神教から合理的な一神教への発展史として描く[12]。 その他、エウリピデスの校訂と韻文調英訳などの業績がある[7][6]。 主な著作
脚注
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