キラ・カアイフエ
マイカ・キラ・カアイフエ(Micah Kila Ka'aihue、1984年3月29日 - )は、アメリカ合衆国・ハワイ州出身のプロ野球選手(一塁手)。右投げ左打ち。 経歴高校時代2001年、ハワイ州高校選抜チームの一員として来日している。投手、内野手として日米親善高校野球大会に出場した(中国地区を巡回)。 ロイヤルズ時代![]() (2011年4月22日) 2002年6月4日にMLBドラフト15巡目でカンザスシティ・ロイヤルズから指名を受けた。6月24日に選手契約を結び、プロ入り。同年は、ガルフ・コーストリーグのGCLロイヤルズ(ルーキー級)に所属。43試合に出場し、打率.259・3本塁打・21打点という成績を残した。 2003年は、バーリントン・ビーズ(A級)に昇格した。そこでは114試合に出場して打率こそ.238と低かったものの、11本塁打を放ち、63打点をマークした。 2004年も、引き続きビーズでプレイ。2003年より僅かに出場試合数が増え、125試合に出場した。また、打率も僅かながら上昇したが、それでも.246と、2年連続で.250以下の打率に終わった。一方で15本塁打を放ち、62打点をマークした。 2005年は、ハイデザート・マーベリックス(A+級)に所属し、132試合に出場。打率.304・20本塁打・90打点という好成績を残した。また、97三振に対して同数の97四球を選び、出塁率は.428という高い数字を残した。 2006年は、ウィチタ・ラングラーズ(AA級)でプレイして、103試合に出場。しかし、103試合で65本しかヒットを放てず、打率.199・6本塁打・45打点という低調な成績に終わった。 2007年は、ウィルミントン・ブルーロックス(A+級)で60試合に出場。2006年と比べると復調し、打率.251・9本塁打・42打点という成績をマーク。シーズン途中でラングラーズに再昇格し、70試合で打率こそ.246だったが、12本塁打・40打点という成績を残し、2005年に20本塁打を記録して以来、2年ぶりの20本塁打を記録した。 2008年は、ノースウェスト・アーカンサスナチュラルズ(AA級)で91試合に出場。打率.314・26本塁打・79打点と2007年までとは比べものにならないペースで打ちまくった。また、91試合で80四球を選んだのに対して、喫した三振は41個。その為、出塁率は.463という高い数字だった。その後、好調の影響でオマハ・ロイヤルズ(AAA級)に昇格したが、ここでも勢いは衰えず、33試合の出場で打率.316・11本塁打・21打点という成績を残した。結局2008年は、AA級とAAA級の2チームで計124試合に出場し、打率.314・37本塁打・100打点というハイレベルな成績を記録した。そして、9月のロースター拡大に伴って、メジャーリーグに昇格[1]。9月4日にメジャーデビューを果たした。メジャーリーグでは12試合に出場しただけだったが、打率.286という数字を記録し、メジャー昇格1年目で本塁打も放った。 2009年は、メジャーでの出場は無かった。 2010年には、メジャーで、8本塁打を放った。 2011年は、エリック・ホズマーの台頭もあり、控えに回された。9月21日にDFAとなる[2]。 アスレチックス時代![]() 2011年9月27日にオークランド・アスレチックスへトレードされた。 2012年はマリナーズと東京の東京ドームで開催されたMLB日本開幕戦のメンバーとして訪日している。6月6日にDFAになる[3]。 ダイヤモンドバックス時代2012年11月21日にアリゾナ・ダイヤモンドバックスとマイナー契約を結ぶ[4]。 2013年は3Aで53試合に出場し、打率313、16本塁打、50打点の成績を残した。 広島時代2013年6月11日、広島東洋カープと契約合意した事が球団から発表された[5]。キラの入団により、広島は外国人選手が7人という異例の事態となった(ドラフトを経ているため申成鉉は日本人選手扱い)。背番号は13に決まった。登録名はファーストネームまで含んだ「キラ・カアイフエ」。 入団後しばらくは二軍生活だったが、7月9日に一軍昇格し、同日のDeNA戦で「5番・一塁」でスタメン出場し、第3打席でNPB第1号本塁打を放つ。翌10日には「3番・一塁」でスタメン出場し第1打席で2試合連続となる本塁打を放ち、さらに翌11日の試合では2本の本塁打を放つなど、このDeNAとの3連戦だけで10打数5安打、4本塁打、10打点、打率.500という驚異的な成績を残した[6]。後半戦から一軍のクリーンナップに定着した当シーズンは、途中加入ながら14本塁打45打点をマークする活躍を見せ、カープとしては16年ぶりのAクラス入りに大きく貢献した。 2014年は同じく助っ人のブラッド・エルドレッドとともに打線の軸として期待された。開幕からまずまずの結果を出し、オールスターゲームにも初めて選出された。しかし、シーズン中盤から故障などもあって、成績が徐々に下降し、更に負傷離脱の間に一軍で活躍したライネル・ロサリオの台頭によって外国人枠から弾き出され、後半戦は大きく出場機会を減らした。最終的には88試合の出場で打率.257、本塁打11本、40打点と、1シーズン在籍しながら打撃成績を軒並み昨年より落とした。12月2日、自由契約公示された[7]。 広島退団後2015年1月18日に、ワシントン・ナショナルズとマイナー契約を結んだ。スプリングトレーニングには招待選手として出場した[8]。5月24日にFAとなる。6月18日にマイアミ・マーリンズとマイナー契約を結んだ。 現役引退後2017年、ハワイにあるヘンリー・J・カイザー・ハイスクール野球部のコーチに就任し、2020年まで務めた[9]。 2021年にはハワイ大学野球部のコーチに就任した[9][10]。 選手としての特徴マイナーリーグ時代には12シーズン中、2ケタ本塁打を10度、うち20本塁打以上を4度記録しているパワーが持ち味。また、選球眼に優れており、マイナーリーグでは通算871三振に対して812四球を記録し、通算打率.268ながら通算出塁率.391という高い数字を残している。NPBでも2013年は打率.259だが出塁率.362で1割以上高かった。 人物弟のカラ・カアイフエは、元マイナーリーガーで、父親も元マイナーリーガーである[11]。 応援歌の原曲はハワイ民謡の「Ta-Hu-Wa-Hu-Wai(タフアフアイ)」。 詳細情報年度別打撃成績
年度別守備成績
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク
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