カンボ=レ=バン
カンボ=レ=バン (フランス語:Cambo-les-Bains、バスク語:Kambo)は、フランス、ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏、ピレネー=アトランティック県のコミューン。 地理カンボ=レ=バンはフランス領バスクのラブール地方に属す。スペイン国境まで約15kmと近く、自動車で約30分でコート・バスク(バスク海岸)に着くことができる。アドゥール川の支流ニーヴ川が流れる。 経済スパ関連の職業につく人が1000人を超える。スパのほか17箇所の保養施設がある。残りの経済活動は農業と園芸である。カンボ=レ=バンで生産されるエスプレットにはAOCが付けられる。 カンボ=レ=バンのスパは、リウマチ、変形性膝関節症、運動器障害に効能があるとされる。スパの建物は1926年に建てられた新古典主義建築で、15ヘクタールの庭園もある。18世紀初頭、定期的にカンボのスパを訪問したのはスペイン王カルロス2世の未亡人マリアナであった[1].。 交通
由来Camboは、1235年に出されたバイヨンヌの特許状台帳に記載されている。1350年にはCamboa、1501年にバイヨンヌの憲章の中ではCambe、1650年にCambo、1757年にはバイヨンヌ司教座の文書でSanctus Laurentius de Cambo、フランス革命中の1793年にはLa Montagneと呼ばれた。 歴史歴史家ポール・レイモンは、ラールソールの教区がカンボに併合されたと記録している。1790年3月4日の法令で、フランス国内は県と地方行政区画が一新されたが、このときベアルンを分割してバス=ピレネー県が誕生した。バイヨンヌ、ビダシュ、フランス領バスクの3地方はガスコーニュに含まれた。フランス領バスクにはラブールの代官区に代わって3つの地区ができた。モレオン、サン=パレ、ユスタリッツである。地元官職者の力を押さえつけるため、ユスタリッツの地区機能はただちにバイヨンヌへ移された。多くのコミューンは、革命の精神に沿って改名が行われた。カンボはラ・モンターニュ、アイノアはメンディアルト、ユスタリッツはマラ=シュル=ニーヴ、イチャスーはユニオン、アルボンヌはコンスタント、サン=テチエンヌ=ド=バイゴリはテルモピル、サン=パレはモン=ビドゥーズといった具合であった。1790年、カンボはアルスウとイチャスウを含む小郡庁所在地となった。 恐怖政治が頂点に達した1794年、イチャスウから47人の若者が脱走した。公安委員会は彼らを逮捕して、男女・幼い子供を含む一部を、スペイン国境に近いその他のコミューンと同じく、アイノア、アスカン、エスプレット、イチャスウ、サール、スライードといった不名誉なコミューン(communes infâmes)へ強制送還した[2].。1794年9月の法令で追放が解除され帰宅が許されても、彼らには困難が待ち構えていた。まず第一に、自由の身となった彼らに空腹を満たす手段がなかった。そして人里離れた場所にあった彼らの家は略奪にあい、家財道具が持ち去られていたのである。 姉妹都市脚注
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