カルリスタ王位請求者の一覧カルリスタ王位請求者の一覧は、1833年よりスペインの伝統主義者、保守主義者たちが起こしたカルロス主義運動によって正統なスペイン王に推戴されたモリナ伯カルロスとその後継者の一覧である。モリナ伯爵家の直系が1936年に絶えると、カルリスタ(カルロス主義運動参加者)たちは誰を次の「カルリスタの王」に奉じるかをめぐって分裂した。 カルリスタ直系(1833年 - 1936年)モリナ伯爵カルロスとその直系子孫の王号とその順序数は、支持者たちによって付けられたものであり、本人たちはスペイン王であることを宣言したことはない。ただしカルリスタの王たちはスペイン王が使用する称号の一部を使うことで、スペイン王位の正統な継承者たることを示した。
ブルボン=パルマ家(1936年 - )1936年にモリナ伯爵家最後の当主アルフォンソ・カルロスが死去すると、カルリスタの主流派はアルフォンソ・カルロスによってカルリスタ派の摂政に任命されたブルボン=パルマ家の公子ハビエル(サヴェリオ)を次の後継者とした。カルリスタの政治理念を共有する者の中では、ハビエルはアルフォンソ・カルロスに最も近いブルボン家の親族として、1936年にカルリスタ派の摂政に任じられた。ハビエルは1952年よりカルリスタの王位請求者となることを宣言したが、1975年に息子カルロス・ウゴに譲位した。 1960年代後半から70年代初頭にかけてカルロス主義運動の中には変化が生じ、カルリスタ主流派はハビエルの二人の息子、カルロス・ウゴの支持者と弟シクスト・エンリケの支持者に分裂した。カルロス・ウゴは1960年代に独裁者フランシスコ・フランコに接近し、またチトー主義に心酔して自主管理社会主義を基盤とした社会主義的君主制の樹立を主張し、多くの伝統派カルリスタの支持を失った。こうした動きに対し、弟のシクスト・エンリケはカルロス主義の伝統的・守旧的立場の維持を主張して、カルロス・ウゴと決裂した。1977年、シクスト・エンリケの支持者はハビエルの書いたカルロス・ウゴを廃嫡するとする宣言文を公表した。これに対し、カルロス・ウゴの支持者たちはハビエルによるカルロス・ウゴを後継ぎと認める宣言文を発表した。これ以後、ブルボン=パルマ家内のカルリスタ王位請求は分裂状態にある。
シクスト派(1975年 - )カルロス・ウゴの弟シスクト・エンリケは1977年よりカルリスタの摂政を自任しており、カルリスタ内の伝統主義者たちの支持を受けている。彼はまた、その兄カルロス・ウゴが正当な王位継承者ではあったものの、カルロス・ウゴが社会主義者であった以上は王位を継承できないと考える人々からも支持を得ている。シクスト・エンリケはカルリスタの王位を請求せず、カルロス・ウゴの息子たちがいずれカルリスタ伝統派の価値観を受け入れることを切望している。
1936年以後の対立王位請求者バルセロナ伯(1957年 - 1977年)1936年にサン・ハイメ公アルフォンソ・カルロスが死去して以来、サリカ法に基づくブルボン家の長子権者は元スペイン王アルフォンソ13世であった。アルフォンソ13世は公認されたスペイン王であったが、1931年に退位させられていた。アルフォンソ13世は"カルロス5世"の弟フランシスコ・デ・パウラの男系の嫡曾孫である。アルフォンソ・カルロスの死をカルリスタとイサベル派に分裂していたスペインの君主制支持者を合同させる機会だと考えた少数派のカルリスタにより、アルフォンソ13世はカルリスタの王位継承者として支持された。 アルフォンソ13世の長男アストゥリアス公(のちコバドンガ伯)アルフォンソと次男セゴビア公ハイメ(後述)は、1933年にそれぞれスペイン王位継承権を放棄しており、またアルフォンソは1938年に死去していた。アルフォンソ13世は1933年に三男のバルセロナ伯フアンをスペイン王位継承者に指名した。バルセロナ伯は1957年、王家の「合同」を望む一部のカルリスタの支持を受け入れたが、1975年に長男のフアン・カルロス1世がスペイン王位に就いたこともあり、1977年にスペイン王位に対する請求を取り下げた。
セゴビア公(1964年 - 1969年)アルフォンソ13世の次男セゴビア公ハイメは、1933年に王位継承権を放棄してスペイン王家の家督を弟のバルセロナ伯フアンに譲っていたが、1949年に王位継承権を再主張、1964年にカルリスタ派の支持を受け入れることを宣言し、ハイメ4世と称した。しかしフランシスコ・フランコがバルセロナ伯の長男フアン・カルロスをスペイン王位継承者に決めると、ハイメは長男アルフォンソの勧めに従い、フアン・カルロスを正統なスペイン王として支持し、1969年7月19日にスペイン王位請求を取り下げた。これ以降ハイメ及び後継者はカルリスタの王位請求を行っていない。ハイメを支持したカルリスタはごくわずかだったが、支持者の中には"カルロス7世"の子供の中で最後まで生き延びていたアリシア・デ・ボルボン(1876年 - 1975年)がいた。ハイメとその直系子孫はレジティミストの支持するフランス王位請求者の地位をも受け継いでおり、レジティミストの大多数の支持を得ている。
ハプスブルク=トスカーナ家(1936年 - 1975年)"カルロス7世"の長女ブランカは、ハプスブルク=トスカーナ家のレオポルト・ザルヴァトール大公と結婚した。1943年、大公夫妻の末息子カール・ピウスが、大叔父アルフォンソ・カルロスの後継者であると宣言して、カルリスタ王位請求者に名乗りをあげた。これは女系を通じての請求であるため、圧倒的大多数のカルリスタからは受け入れられず、わずかな支持を得るに留まった。同家の支持者たちはカルロクタビスタ(carloctavista)と呼ばれた。1975年のフランツ・ヨーゼフの死後まもなく、フアン・カルロス1世による王政復古もあって、ブランカの子孫を支持するカルリスタはいなくなった。
系図
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