オークラロータリーレーシング![]() オークラロータリーレーシング(OKURA Rotary Racing)とは、かつて岡山県に存在したレーシングチーム。 概要岡山県高梁市の「オークラオートサービス」が母体[1]。マツダ・RX-7(FD3S)で1998年-2000年まで全日本GT選手権に参戦した[2]。当時、GT選手権300クラスでは、中四国唯一の有力企業などをバックに持たないプライベートチームの参戦として話題となった[2]。 レース車両RX-7(FD3S)に、自然吸気の3ローターエンジンを搭載した。ハウジングはマツダスピードのスポーツキットを使用し、ドライサンプ仕様であった(RE雨宮はノーマルFD3Sを加工したハウジングを使用し、当時はまだウエットサンプであった[3])。当時のレギュレーションによって、リストリクターの装着が義務付けられていた[3]。ゼッケンは72番を使用し、紺色のカラーリングを使用した。 戦歴1998年ドライバーはマーク・ポーター(Mark Porter)[4]と片山義美を起用。後に片山の代わりに平野功が参加した。緒戦は頻発するエンジンブローでリタイヤが続いた。多発するエンジンブローのために、GT選手権の開催中にピットでエンジンのオーバーホールと組み立てを行い、殆ど慣らしのせずに実戦投入することなども強いられた。後ほど原因はマツダスピードによるオイル配管の設計ミス(油圧のリリーフ弁からの配管がエンジンに接続されていた)と判明した。5戦に出場したが完走は1回のみ(9月12日 もてぎGTチャンピオンレース)でクラス15位に終わった[5]。レースクイーンとして名波はるかが在籍した。 1999年ドライバーは石川朗と平野功を起用し7戦に出場した。マツダスピードのGT-Cエアロパーツが装着され空力特性が向上した[6]。一時クラス3位を走行することもあったが[7]、マシンの熟成が遅れ[8]マイナートラブルによるリタイヤが多く、完走は2回のみあった[5]。7月10日のCP MINE GT RACEでのクラス10位が最高で1ポイントを獲得するに留まった[8][5]。このMINEサーキット戦の直前にマツダスピードが解散することが発表された[9]。マツダスピードからサスペンションアームなどを購入していたチームオーナーは不安を訴えた[10]。また3ローターエンジンのエキセントリックシャフトが入手できず、海外を含めた中古パーツ市場でも滅多に手に入らなくなっている状況が報告された[10]。マツダスピードサービス部杉野芳彦課長は、社長がマツダ本社と交渉しているが7月末で会社自体が消滅するのでGT選手権に参戦している2チーム(オークラとRE雨宮)のサポートは今後困難になる可能性があることを示唆した[10]。ファン投票の結果、GT300クラスで4位となり1999GTオールスター出場権を獲得し[5]、1999NICOS CUP GT ALLSTARに出走した(1999年11月27日-28日)。同年の第28回「インターナショナル ポッカ1000km」(鈴鹿1000kmレース)にはエントリーしたものの、資金難で出走できなかった。 2000年ドライバーは沢圭太と石川朗を起用[7]。1999年までのマシンのボディーが疲弊していたために2000年はボディーから新調して参戦した。マシンは東京オートサロン2000に展示され[1][11]、マツモトキヨシ雨宮RX-7号と人気を2分するギャラリーを集めた[8]。ニューシャシーはマツダスピードの消滅を機に退社した杉野芳彦[12]が製作した。同シャシーは計3台作成され、オークラロータリーレーシング、RE雨宮、レボリューション[13]に配布された。ニューマシンの製作が遅れ、TIサーキット英田(現在の岡山国際サーキット)で開催される第5戦(9月9日-10日)から参戦した[7]。3週間前に完成したばかりのニューマシンは[7]予選前日の練習走行で20台中5位のタイムを記録し昨年以上の仕上がりとされたが、午後の走行で沢選手が運転中に他車と接触してマシンが大破し、予選と決勝には出場できなかった[5][14]。マシンの修復に時間がかかり残り2戦には参戦できず、2000年はそのままシーズンを終えた[5]。 2001年第2戦(富士スピードウェイ)から参加を予定していた[2]。ドライバーは桧井保孝[2]を予定していたが、資金難より2001年のエントリーは取りやめた。 その後2001年以降、チームはレース活動を停止して解散した。またレース車両は海外に売却された。 スポンサー
オークラオートサービスについて
岡山県高梁市落合町の自動車修理工場。マツダOBでロータリーエンジンを草創期から見つめてきた[15]大倉従道(つぐみち;1939年3月19日[16]-)が1989年1月に開設した[16]。現在は自動車整備業者になっている。 脚注
関連項目 |
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