エルンスト・クルシェネク
エルンスト・クルシェネク(Ernst Krenek, Ernst Křenek 1900年8月23日 - 1991年12月22日)は、ドイツやアメリカ合衆国で活躍したオーストリア出身の作曲家。 出自ウィーン出身。姓の“r”にハーチェクを付けた表記(Křenek)でも知られるように、数世代にわたるチェコ系の家庭に生れたが、生れた時に実家の母語はすでにドイツ語になっていた。このため作曲者自身は、Křenekという表記を斥け、Krenekという綴りとドイツ語風の「クレ(ー)ネク」という発音をよしとし、自分自身もそう発音していた。しかしながら日本では、「クシェ(ー)ネク」「クジェーネク」「クルシェネク」とするチェコ語風の表記が普及している。 生涯ウィーン音楽アカデミーにフランツ・シュレーカーに作曲を師事。第一次世界大戦中にオーストリア帝国軍に徴兵されるが、音楽の研究を続けることを許され、ウィーンにとどまり続けた。戦後にシュレーカーがベルリン高等音楽学校の校長に抜擢されると、アロイス・ハーバらとともに恩師を追ってワイマール共和国に移り、当地でフェルッチョ・ブゾーニやヘルマン・シェルヘンの知遇を得た。卒業後はドイツ各地の歌劇場で指揮者として活躍する(1960年代に自作を指揮した録音は、現在EMIよりCDに復刻されている)。 1922年に美術家アンナ・マーラーと出会い、その母アルマ・マーラーより、マーラーの遺稿《交響曲 第10番》を完成させるように打診されるが、第1楽章と第3楽章の校正・改訂を行なっただけで、それより先には進まなかった。1924年にアンナと結婚するも、1年たらずで破局を迎えた。なお、1922年には友人のエドゥアルト・エルトマンの要望に応じてシューベルトの未完の《ピアノソナタ第15番》を補筆[1]している。 ナチス政権が発足すると、クルシェネク作品はドイツで上演禁止とされ、オーストリア共和国でもナチスの影響に干渉された。そのような中でクルシェネクはエンゲルベルト・ドルフース率いる祖国戦線に加入し、ドルフース政権の熱心な支持者となる。 1938年にアメリカ合衆国に逃れ、音楽教師として活動を開始、1939年から1942年までニューヨーク州のヴァッサー大学で、1942年から1947年までミネソタ州セント・ポールのハムリン大学で教鞭を執った。1945年に合衆国市民権を取得しアメリカに帰化。その後も教育界・作曲界で第一線に立ち、門下に作曲家・音楽学者のジョージ・パールやロバート・エリクソンらを擁する。カリフォルニア州パームスプリングスにて永眠。ウィーン中央墓地に埋葬されている。 ウィーン市は1985年に名誉市民であるクルシェネクの85歳を記念して「エルンスト・クルシェネク賞」を開始し、2年に1回優れた作曲家や音楽学者に賞を授与している[2]。これはもともと新人のために自ら手渡していた賞が前身である[3]が、現在は違う。 作風と作品クルシェネクの作品は、多種多彩である。初期作品は、恩師シュレーカーの影響下に後期ロマン主義音楽の伝統にのっとっている。その後はバルトークや新ウィーン楽派に影響され、無調による作曲に取り組むが、パリを訪れストラヴィンスキーやフランス六人組と親交を結んだことから、新古典主義音楽やジャズの音楽様式に影響され始める。 ジャズに影響された1926年の歌劇《ジョニーは演奏する (Jonny spielt auf) [4]》が、ソ連邦を含むヨーロッパ各地で演奏されると、たちまちクルシェネクは1920年代の寵児となった。この作品はナチスによって指弾されたにもかかわらず、その名がオーストリアのタバコの銘柄「ジョニー」にも採用されたほどの人気であった。 1930年代はオーストリアに帰国するとともに、シューベルトの影響下にロマン主義音楽の伝統に復帰、連作歌曲集《オーストリア・アルプスからの旅日記 (Reisebuch aus den österreichischen Alpen)》(1929年)は、この時期の新ロマン主義様式の代表例となっている。 亡命に前後する時期にシェーンベルク流儀の十二音技法に転向。歌劇《カール5世 (Karl V)》(1930-1933年、出版1938年)は、後期様式の典型である十二音技法が完全に用いられた最初の作品である(史上初の全編十二音技法を用いた本格的な歌劇でもある。この時点でシェーンベルクは1幕の《今日から明日まで》しか手掛けていなかった)。渡米後、とりわけ第二次世界大戦後は、電子音楽や偶然性の音楽にもとりくんだ。 このようにクルシェネクの作風は、生涯を通じて(特に彼が同時代を代表する作曲家として認知されていた前期の作品を中心に見た場合)変化に富む。ヨーロッパ時代はヒンデミットに私淑し、「実用音楽」というその理念に共鳴したにもかかわらず、新ウィーン楽派に鞍替えしてからはテオドール・アドルノとともにヒンデミットを論難するようになった。このように作曲家・音楽美学者としてのクルシェネクは、伝統から前衛の間で揺れ動いた。 指揮者のミトロプーロスから「聴衆が君を忘れたのは、君が聴衆を忘れているからだ」と批判された。しかしながらクルシェネクの作品は、新しい作曲技法を用いた後期作品においてさえ、自然な抒情性や愉悦感が保たれている。 後期作品のそのような特色を端的に示す例として、無伴奏混声合唱曲集《預言者エレミアの哀歌 (Lamentatio Jeremiae Prophetae)》作品93(1941年)や、グレン・グールドの演奏で名高い《ピアノ・ソナタ第3番》がある。とはいえ後者について作曲者自身は、グールドがプロコフィエフ作品のような「ヴィルトゥオーゾ作品」と解釈していると非難し、正統的な解釈を後世に残すべく、ピアニストのジェフリー・ダグラス・マッジに託して、その録音を監修した。ピアノソナタ第7番はジェフリー・ダグラス・マッジのための書き下ろしであった。 《ジョニーは演奏する》、《カール5世》などの多くのオペラの台本や、《オーストリア・アルプスからの旅日記》、トータル・セリエリスムを用いたソプラノと8楽器のための《セスティーナ》作品161(1957年)などの声楽曲の詞は彼自身の手になる。 評論日本ではドイツ語による、アドルノとの往復書簡集やマーラー論が知られているにすぎないが、英語による著作業でも活躍し、現代音楽論(原題 Music Here and Now 、1939年)やオケゲム論(1953年)といった論文のほか、回想録「自作を語る」(原題: Horizons Circled: Reflections on my Music 、1974年、Univ of California Press出版、ISBN 0520023382)を上梓した。シェーンベルクやアドルノに比べて、若くして亡命したため、速やかに英語に習熟し、その表現力にはグレン・グールドが折り紙を付けたほどである。 日本楽壇との関係ウィーン時代の橋本國彦が師事している。2005年2月4日において、ヴァージニア・ウェアリング国際ピアノ・コンクールの一部門として行われた、エルンスト・クレネク・コンクールの最終審査で、杉山直子が2位に入賞した。チェリストの水谷川優子(みやがわ・ゆうこ、近衛秀麿の孫)は、ヨーロッパ留学時代からクルシェネク作品に傾倒し、その作品を公開演奏において積極的にとり上げている。ハープ協奏曲とハープ・ソナタは、吉野直子の十八番のひとつである。 主要作品一覧舞台作品歌劇
バレエ
管弦楽曲交響曲
協奏的作品
その他の管弦楽曲
吹奏楽曲
声楽曲合唱曲
歌曲
その他の声楽曲
室内楽曲弦楽三重奏曲
弦楽四重奏曲
ソナタ
その他の器楽曲
脚注
参考文献
外部リンク
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