エリス・M・ザカライアス
エリス・マーク・ザカライアス・シニア (Ellis Mark Zacharias, Sr., 1890年1月1日 - 1961年6月27日) は、アメリカ合衆国の海軍軍人。海軍少将。第二次世界大戦期の海軍情報部次長。後にはNBCのドキュメンタリー「Behind Closed Doors」のナレーターを務めた。姓は日本語では「ザカリアス」「ザハリアス」「ザカライヤス」と表記される場合もある [1]。 生い立ちおよび経歴ザカライアスはフロリダ州ジャクソンビルに生まれる。1912年にアナポリスの海軍士官学校を卒業した[2]。戦艦アーカンソー (USS Arkansas, BB-33) に着任し、タフト大統領のパナマ運河視察の護衛に従事した。1913年から1915年まで、ザカライアスはバージニア (USS Virginia, BB-13) に乗り組み、その後調査艦ハンニバル (USS Hannibal, AG-1) に乗り組む。第一次世界大戦時には砲術士官としてピッツバーグ (USS Pittsburgh, ACR-4) に乗り組んだ。 その後、大日本帝国に大使館付武官として赴任し、約3年ほど勤務、関東大震災の前にアメリカに戻った[3]。 海軍休日時代の1931年前半、大日本帝国海軍の海軍将校高松宮宣仁親王(昭和天皇弟宮)と喜久子夫妻がアメリカ合衆国を訪問した[4]。日本滞在経験を踏まえて、ザカライアスは親王夫妻の接待役となった[3]。 1930代後半にアメリカ海軍情報局に所属した。ワシントンDCで山口多聞と対決した。そのあと、ロスアンゼルスで日本海軍のスパイのフレドリックラットランドを二重スパイとして勧誘された。[5] 第二次世界大戦時、ザカライアスは1940年から1942年まで重巡洋艦ソルトレイクシティ (USS Salt Lake City, CA-25) の艦長を務めた。戦時中の彼の階級は大佐であった[6]。1942年のドーリットル空襲時にはハルゼー提督が率いる第16任務部隊(空母エンタープライズ、ホーネット)機動部隊の護衛を担当した[2]。 1945年4月、海軍情報部から戦争情報局に転任となる[7]。海軍情報部時代の情報収集から、日本の政府や軍に和平を望むグループが存在することを確信したザカライアスは、海軍長官のジェームズ・フォレスタルを説得して日本の和平派を後押しするための「OP-16-W」と呼ばれるプログラムに着手し、短波放送を用いた日本に対する心理作戦を実行した(ザカライアス放送)[7]。ザカライアスの進言と活動をきっかけに、フォレスタルは日本に対する「無条件降伏」の内容を緩和する意見の有力な支持者となった[7]。 1946年に心臓発作のため軍を退役し、34年に及ぶ軍務を終えた。 退役後に彼がナレーターを務めたテレビ番組「Behind Closed Doors」は、冷戦を舞台としたユニークな26のエピソードからなるドキュメンタリーシリーズで、ブルース・ゴードンが時折主役のマトソン司令官役で出演した。旧ソ連がどのようにしてアメリカのミサイル関連の機密を盗み出したかに焦点を合わせ、さらなるスパイ活動を防止するためどのようにすべきかを提案している。「Behind Closed Doors」はザカライアスの戦中における情報部での経験を元にして製作された。ザカライアスはそれぞれのエピソードの終盤にコメントを行っている[8]。ザカライアスは「Behind Closed Doors」に出演する前には、ラジオ番組「Secret Missions」のナレーターも担当した[2]。2つの番組のタイトルは、彼の著書からとられたものであった[9][10]。 1961年、彼は心臓発作のためニューハンプシャー州ウェストスプリングフィールドの自宅で死去した。1962年7月3日にバージニア州のアーリントン国立墓地に埋葬された。妻のクララ・ミラー(1897年2月27日生)は1992年11月7日に死去し、ザカライアスの墓に埋葬された。死去当時彼女はバージニア州のフォールズチャーチで生活していた[11]。彼らの息子、エリス・M・ザカライアス・ジュニア(1926年2月1日 - 2006年4月17日)はオクラホマ州タルサで80歳で死去した[11]。彼は1975年にタルサに移り住み、写真家として生活していた。ザカライアス・ジュニアは父と同じく海軍兵学校を卒業し、戦艦ミズーリ (USS Missouri, BB-63) に乗り組んでいた[12]。 著書(訳書のみ)
参照
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