エリサベタ (ルーマニア王妃)
エリサベタ・ア・ロムニエイ(ルーマニア語: Elisabeta a României, 1843年12月29日 - 1916年3月2日)は、ルーマニア王カロル1世の王妃。ドイツ語名ではエリーザベト・パウリーネ・オッティリーエ・ルイーゼ・ツー・ヴィート(Elisabeth Pauline Ottilie Luise zu Wied)。カルメン・シルヴァ(Carmen Sylva)の筆名をもつ詩人・小説家でもあった。 生涯ドイツ王族ヘルマン・ツー・ヴィートとその妃であるマリー・フォン・ナッサウ=ヴァイルブルク(ルクセンブルク大公アドルフの同母妹)の娘として、ノイヴィート・アム・ライン(現在のラインラント=プファルツ州の町)で生まれた。一時はイギリスのプリンス・オブ・ウェールズ、アルバート・エドワード(のちのエドワード7世)の花嫁候補となっていた。未来の夫カロルと最初に出会ったのは、1861年のベルリンであった。2人は1869年に結婚し、一人娘マリアを1870年にもうけたが、わずか3歳で亡くした。 露土戦争のさなかの1877年から1878年にかけて、エリサベタは負傷者の看護にあたった。彼女は、ルーマニアで女性の高等教育を支援し、多くの慈善活動団体を立ち上げた。彼女は優れたピアニスト、オルガン奏者、歌手、画家でもあった。何にもまして彼女の名前を知らしめたのは文学の創作活動である。特に詩、フォークロア、バラッドでは、オリジナル作品はいうまでもなく、ルーマニアの伝説を多く盛り込んでいる。 1881年、子供のないカロル1世は、次の王位を甥フェルディナンド1世に譲ることに決めた。ルーマニアでは全くの外国人だったフェルディナンドは、エリサベタの侍女エレナ・バカレスクと親密な関係になった。エリサベタ自身もエレナとは仲が良かったため、結婚を許されない2人の恋を応援した。 この結果、エリサベタはノイヴィートへ、エレナはパリへ出国することを余儀なくされた。この旅行は、フェルディナンドの花嫁を探す密命も帯びており、この一件はエリサベタの夢想家としての想像力に磨きをかけた。フェルディナンドの花嫁として白羽の矢が立てられたのが、イギリスの王族マリー・オブ・エディンバラだった。 1916年、エリサベタはブカレストで亡くなった。 ヨシフ・イヴァノヴィチの彼女の名を冠したワルツ「カルメン・シルヴァ」は現在でも演奏される。ジョルジェ・エネスクは彼女が主催した演奏会に参加しており、彼女の詩による歌曲も残している。
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