エミル・フォード
マイケル・エミル・テルフォード・ミラー(Michael Emile Telford Miller、1937年10月16日 - )は、セントルシアの歌手。エミル・フォード(Emile Ford)として知られている。 1959年にバックバンドのザ・チェックメイツを従え、「なぜ私を見つめるの」をチャート首位[1] に送り込む。ジャズやポップスのスタンダード曲のカバーをロックンロール調にアレンジし、人気を博した。 この項では、バックバンドを務めたザ・チェックメイツについても記していく。 ザ・チェックメイツメンバーここでは初期のザ・チェックメイツのメンバーを記していく。
上記の4人以外にも、後にキーボードやサックス担当のメンバーが加入する。 来歴生い立ち1937年10月16日、セントルシアのカストリーズにて生まれる。政治家の父親を持つ。しかし両親は離婚、母親が再婚し、スイートナムを新たな名字として名乗る[2]。後にフォードのバックバンド、ザ・チェックメイツのメンバーに加わるデイヴ・スイートナムとジョージ・スイートナムは異父兄弟にあたる。 1950年代半ば、家族と共にイギリスに渡り、サウンド・エンジニアを志す。そして1959年の1月にザ・チェックメイツを結成する。 デビューへアマチュアのコンテストで優勝したフォード達に、EMIから契約の話が持ち上がるが、その条件はフォード自身でレコードをプロデュースしないものだった。EMIとの契約の話を断った彼らは、パイ・レコードと契約を結ぶ。 そして1959年末に、1917年にエイダ・ジョーンズとビリー・マレイによって歌われたシングル「なぜ私を見つめるの」でデビューする。それまで1位を記録していたアダム・フェイスの「ホワット・ドゥ・ユー・ウォント」を蹴落として1位を6週間記録する。 またこの時に、同じくパイ・レコードに所属していた歌手、ジミー・ジャスティスのデビュー曲、「アイ・アンダースタンド」をプロデュースし、バックバンドのザ・チェックメイツがザ・ジュアリーと名前を変えて参加している。 続く「スロー・ボート・トゥ・チャイナ」が3位、「涙を数えて」が4位を記録し、一躍人気バンドの仲間入りを果たす。 しかし、1962年の「アイ・ワンダー・フーズ・キッシング・ハー・ナウ」がチャートの43位を記録して以後、シングル曲はチャート入りしていない。 その後1963年、フォードはザ・チェックメイツと別れ、再びサウンド・エンジニアを志す。父親の協力で、1969年にスタジオを持つ。 またザ・チェックメイツは、デッカ・レコードに移籍し、ジョー・ミークのプロデュースの下活動するも、セールスは奮わず、解散に至る。 エピソードフォードは、イギリスの黒人歌手で初めてセルフプロデュースし、かつミリオンセラーを達成した人物である。 また彼は共感覚の持ち主で、音に色が見えるという。その共感覚を頼りに、自身で曲をプロデュースしていった。2000年代に入って緑内障を患ってしまったものの、共感覚は衰えていない。 ディスコグラフィーシングル・ディスコグラフィー
脚注
参考文献
関連項目 |
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