エドワード・ゴーリー
エドワード・ゴーリー(Edward Gorey, 1925年2月22日[1][2] - 2000年4月15日)は、アメリカの絵本作家。本名はエドワード・セントジョン・ゴーリー(Edward St.John Gorey)[3]。 絵本という体裁でありながら、道徳や倫理観を冷徹に押しやったナンセンスな、あるいは残酷で不条理に満ちた世界観と、徹底して韻を踏んだ言語表現で醸し出される深い寓意性、そしてごく細い線で執拗に描かれたモノクロームの質感のイラストにおける高い芸術性が、「大人のための絵本」として世界各国で熱心な称賛と支持を受けている[4][5]。 また、幻想的な作風とアナグラムを用いたペンネームを幾つも使い分けて私家版を出版したことから、多くの熱狂的なファン・コレクターを生み出している[4]。 略歴1925年、イリノイ州シカゴに新聞記者の息子として生まれる[3]。 1942年、フランシス・W・パーカー・スクールを卒業後、シカゴ・アート・インスティチュートに入学[6][7][8]。1943年、シカゴ・アート・インスティチュートで半年だけ美術を学んだ後、アメリカ陸軍に入隊[6]。工兵隊に所属しダグウェイ実験場で毒ガスのテスト等に従事した[3][9]。1946年、兵役を終えハーバード大学に入学し、フランス文学を専攻する[10]。詩人のフランク・オハラとはルームメイトであったほか、同じく詩人のジョン・アッシュベリー、作家のジョージ・プリンプトンやアリソン・ルーリーとも交友があった[3][11]。 1950年、ハーバード大学を卒業[10]。メリル・ムーアの詩集『不規則なソネット』(Illegimate Sonnets)の見返しにイラストを描き、これが最初の商業出版となる[10]。1953年、ニューヨークに移り住み、出版社ダブルデイ社に職を得る[10][12]。画期的なペーパーバック・シリーズとなるアンカー・ブックスで装丁やタイポグラフィーなどを担当する[10][13]。同年、絵本デビュー作品となる『弦のないハープ またはイアブラス氏小説を書く。』を発表[10]。1956年頃からニューヨーク・シティ・バレエに傾倒する[10][14]。1957年、『うろんな客』刊行[10]。1959年、評論家のエドマンド・ウィルソンによる最初の賞賛記事がニューヨーク・タイムズに掲載される[3]。 1960年、ダブルデイ社を退社し、ランダム・ハウス社の古典童話文学のハードカバー版を出版する部門ルッキング・グラス・ライブラリー(Looking Glass Library)に職を得る[3][15]。H・G・ウェルズの『宇宙戦争』などの装丁やイラストレーションを担当[6][16]。1962年、自身の出版社ファントッド・プレス(Fantod Press)を立ち上げ、『残忍な赤ちゃん』(The Beastly Baby)を出版する[3][17]。1963年、ルッキング・グラス・ライブラリーを辞め、短期間のボブズ・メリル社勤務を経て、フリーランスとなる[15]。 1972年、最初のアンソロジー本『アンフィゴーリー』(Amphigorey)が出版され、ニューヨーク・タイムズ・ブックレビューの「今年度最も注目すべき美術書の5冊」に選ばれた他、「ベスト・デザイン・ブック15」として、アメリカン・インスティテュート・オブ・グラフィックアーツ賞を受賞[3][18][19]。1973年、ナンタケットのサイラス・ピアース劇場の公演『ドラキュラ』のセットと衣裳デザインを担当[20]。1974年、最初の回顧展『ファンタスマゴリー』展がエール大学図書館にて開かれる[20]。1977年、ブロードウェイで舞台劇『ドラキュラ』公演[21][22][23][24]。1978年、『ドラキュラ』でトニー賞の衣装デザイン賞を受賞するも、授賞式を欠席する[3]。 1980年、アメリカの教育テレビ放送局PBSの番組『ミステリ!』(Mystery!)のオープニング・アニメーションを制作[21][25][26]。1983年、ニューヨークからマサチューセッツ州のケープ・コッドに引っ越す[19]。1985年、ヤーマスポートの館を買い取り移転。終の棲家とする[19]。 1997年、ハーコート社から過去の作品が再版され始める[27][19]。1998年、『憑かれたポットカバー』出版[3][27]。1999年、最後の作品となる『頭のない胸像』(The Headless Bust)が出版される[3][19]。 2000年4月15日、マサチューセッツ州の病院にて心臓発作で死去。75歳[3][28]。同年10月、初の邦訳本『ギャシュリークラムのちびっ子たち』が出版される[27]。 ヤーマスポートにある自宅はゴーリーの死後、「エドワード・ゴーリー・ハウス」として一般公開されている[29][30]。 ペンネームゴーリーは本名での名義以外にも、幾つものペンネームを用いて作品を発表することがあり、そのほとんどはアナグラムによって自身の名前(Edward Gorey)のつづりを入れ替えて作られたものである。 以下はゴーリーが用いたペンネームの一例[31]。
これらの他にも、Eduard Blutig(エドゥアルド・ブルティグ)やEdward Pig(エドワード・ピッグ)といったペンネームも用いている。 エピソード
翻訳されている絵本作品
※1と※2は、エドワード・リアの詩、※3は、ヒレア・ベロックの詩を基にしている。※4はローダ・レヴィーン著。 その他の作品
脚注
参考文献
外部リンクウィキメディア・コモンズには、エドワード・ゴーリーに関するメディアがあります。 |