エドワード・イースト

エドワード・E・イースト
Edward H. East
テネシー州知事代行
任期
1865年3月4日 – 1865年4月5日
前任者アンドリュー・ジョンソン (軍政長官)
後任者ウィリアム・G・ブラウンロウ英語版
テネシー州軍政州務長官英語版
任期
1862年3月12日 – 1865年4月5日
任命者アンドリュー・ジョンソン
前任者J・E・R・レイ
後任者A・J・フレッチャー
個人情報
生誕 (1830-10-01) 1830年10月1日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 テネシー州デイヴィッドソン郡
死没 (1904-11-12) 1904年11月12日(74歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 テネシー州デイヴィッドソン郡[1]
墓地マウント・オリヴェット墓地英語版
政党ホイッグ党
オポジション党英語版
共和党
禁酒党
配偶者アイダ・ホートン[2]
専業弁護士
署名

エドワード・ハザード・イースト (Edward Hazzard East) 、あるいはE・H・イースト1830年10月1日 - 1904年11月12日)は、南北戦争北軍の占領下にあったテネシー州を治める軍政長官アンドリュー・ジョンソンによって同州の州務長官に指名され、1862年から1865年まで務めた。ジョンソンが1865年3月4日に副大統領に就任した後は、「選挙された」州知事たるウィリアム・G・ブラウンロウが4月5日に就任するまでの間、イーストは「テネシー州知事代理」を務めた。

公式『テネシー州青書』(Tennessee Blue Book)は、イーストを公式な知事の一覧に含めていない。これは、テネシー州知事経験者の人数が資料によって異なる理由の1つである。

イーストは、1854年にレバノン法学校(のちのカンバーランド法学校)を卒業した。彼はヘンリー・クレイに倣ってホイッグ党員となった。彼は、南部諸州の連邦脱退には反対であった。エイブラハム・リンカン暗殺後、大統領となったアンドルー・ジョンソンはイーストをワシントンD.C.に呼び出し、イースト判事に「空いている任意の地位に就くよう勧めたが、彼はその全てを断った」。イーストは著名な法律家であり、連邦最高裁に持ち込まれた諸々の事件について論じた。また、南北戦争前後には演説者として知られた。イースト判事は、ヴァンダービルト大学評議会の設立委員5名のうち1人であった。

テネシー州ナッシュヴィルのオリヴェット・マウント墓地に埋葬された。

参考文献

  1. ^ Finding Aid for the Andrew Johnson Letter MS.0930, University of Tennessee Special Collections Online. Retrieved: 17 October 2012.
  2. ^ William Speer, Sketches of Prominent Tennesseans (Baltimore: Genealogical Publishing Company, 1903; originally published in 1883), pp. 196-200.

外部リンク