エドセル・ブライアント・フォード (Edsel Bryant Ford, 1893年 11月6日 -1943年 5月26日 )は、アメリカ の実業家 ヘンリー・フォード とその妻クララ・ジェーン・ブライアント・フォード (英語版 ) の息子で、アメリカの実業家・慈善家である。1919年 から1943年に没するまでフォード・モーター・カンパニー の社長を務めた。
彼は唯一の後継者として父ヘンリーと密接に仕事をしていたが、1920年代には陳腐化していたT型フォード(ブリキのリジー) よりも自分の好みに合わせた刺激的な車を開発したいと考えた。しかし社長職を退いても実質的社主として強権を振るうことをやめないヘンリーの説得に苦労した。
市場の状況変化を把握して、1927年 にはモデルTの後継型となる新型車モデルA の開発に携わり、近代化されファッショナブルなスタイリングを実現した。また、エドセルは中級車種マーキュリー 部門を設立し(1938年)、量産型高級車リンカーン・ゼファー と、ゼファーを元にした高級パーソナルカー、リンカーン・コンチネンタル の開発・発売を主導するなど、中級・高級車部門が手薄であったフォード社のフルライン化を実現した。さらに鋼製ボディ、油圧ブレーキ などの重要な機能を導入し、海外生産を大幅に強化した。
エドセルはデトロイトの芸術の大規模な支援者であり、リチャード・バード 提督の極地探検にも資金を提供した。
エドセルは49歳で胃癌 で没した。フォード社の社長職は父ヘンリーが一時的に復帰した後、エドセルの長男ヘンリー・フォード2世 に引き継がれた。
人生と経歴
エドセル・フォードのモデル40スペシャル・スピードカー
エドセル・フォードは1893年11月にデトロイト で生まれた。彼はクララとヘンリー・フォードの一人息子で、ヘンリー・フォードの最も親しい幼馴染の一人であるエドセル・ルディマンにちなんで名付けられた。
家業の自動車会社の後継者として育てられた彼は、父親と共に車に触れながら成長した。1915年にフォードの秘書となり、1916年 11月1日 にデパートオーナージョセフ・ロージアン・ハドソン (英語版 ) の姪であるエレノア・ロージアン・クレイ(1896年-1976年)と結婚した[ 2] [ 3] 。エドセル夫妻には4人の子供がいた。ヘンリー・フォード2世 (1917年-1987年)、ベンソン・フォード (英語版 ) (1919年-1978年)、ジョセフィン・クレイ・フォード (英語版 ) (1923年-2005年)[ 4] [ 5] 、ウィリアム・クレイ・フォード (1925年-2014年)である[ 6] [ 7] 。 彼らはデトロイトのインディアン・ビレッジ (英語版 ) 地区にあるイロコイス・ストリート2171番地に家を構えていた[ 8] 。
エドセルはコネチカット州 レイクヴィル (英語版 ) のホッチキス・スクール (英語版 ) とデトロイト・ユニバーシティ・スクール(現・ユニバーシティ・リゲット・スクール (英語版 ) )に通った。彼の家族は両校に寄付をした。ホチキスの学校図書館はエドセル・フォード記念図書館と名付けられている[要出典 ] 。
若きフォードは、父親以上に華麗なスタイリングの自動車 に興味を示した。フォード社が1922年 にリンカーン・モーター・カンパニー を買収したこともあって、この傾向が強まった。彼のスポーツカー への愛着は、彼の自家用車にも表れていた。エドセルはアメリカに輸入された最初のMGモーターカー を購入した。1932年 には、フォード初の低コストV型8気筒 エンジンである新型V8 (英語版 ) を搭載し、フォードのデザイナーであるE.T. (ボブ) グレゴリー (英語版 ) がカスタムデザインしたアルミ製のボートテールのスピードスターを所有した。この車は1976年 のアメリア島コンクール・デレガンス (英語版 ) でオークションに出品された[ 9] 。
1919年 にフォードの社長になった後、T型に代わる新型車の導入を提案したが父親に何度も反対された。市場シェアの低下に伴い、ついに新型車A型 の投入が避けられなくなった。
1927年 のA型の開発では、ヘンリー・フォードは自らのポリシーのもとに機械的な品質と信頼性の確保に取り組んだが(モデルAのシャーシやエンジンの設計自体は、モデルTの構成の大幅な強化型であった)、デザイナーのヨゼフ・ガラム (英語版 ) の補助を借りて息子にボディを担当させた。モデルAのスタイリングは、当時のリンカーン・モデルL に大きく影響を受けて洗練されたものとなった。また、エドセルはこのモデルに(T型の後ろ2輪のみのブレーキと、バンド締め付けで動作する遊星歯車2速に代わり)、同業他社並みの4輪機械式ブレーキと擦動ギア切り替えの3速/4速トランスミッション を搭載する事を父親に説得した。A型は商業的な成功を収め、4年間で400万台以上を販売した。
社長としてのエドセル・フォードは、重要案件について父ヘンリーと意見が合わない事が多く、父親から公の場で恥をかかされる事もあった[ 10] 。 父子の関係は常に親密であったが、常に不健全な側面があった[ 11] 。
そのキャリアを通じて常に老ヘンリー・フォードの理不尽な圧力を受けながらも、エドセルはフォード社に後年まで受け継がれる、多くの永続的な変化を導入することに成功した。彼は中級乗用車のマーキュリー 部門を設立、命名した。彼はリンカーン・ゼファー とリンカーン・コンチネンタル の責任者であり、ボブ・グレゴリーのデザインを介して、後年に至るリンカーン車の(同時期のキャディラックよりも抑制され上品な)デザインポリシーを確立した。エドセルはフォード・モーターの海外生産を大幅に強化し、またヘンリー・フォードの保守主義が災いして立ち遅れていたフォード車の近代化に取り組んだ。量産型全鋼製ボディや油圧ブレーキ の導入などは、エドセルがリンカーン車で先行導入してフォードにも取り入れた技術である。エドセルは戦時中も戦後型モデルのプランをボブ・グレゴリーと練っており、エドセル没後の1948年に発表された1949年型マーキュリーのデザインは彼らのデザインコンセプトの産物である。
第二次世界大戦
フォード・モーターはアメリカが掲げた「民主主義の兵器廠」 (英語版 ) を実現する上で重要な役割を果たした。エドセルは会社を率いて、B-24 を生産するフォードの広大なウィローラン (英語版 ) 工場で、1時間に1機の爆撃機を生産するという目標を立てた[ 12] 。 この仕事のストレスが原因でエドセルは致命的な病気になったと言われている。
死と遺産
エドセル・フォードは、転移性 の胃癌 とブルセラ症 を発症した[ 13] 。エドセルは1943年にグロース・ポイント・ショアーズ (英語版 ) の湖畔の自宅ゴークラー・ポイント (英語版 ) で49歳で没した[ 14] [ 15] [ 16] 。エドセル・フォードの無議決権株式はすべて、7年前に父親と一緒に設立したフォード財団 に遺言書の成文で寄付された。彼はミシガン州 デトロイトのウッドローン墓地 に埋葬されている。
エドセル・フォードの子供たちはそれぞれフォード・モーターの多額の株式を相続し、3人の息子たちは全員家業に従事していた。ヘンリー・フォード2世は1945年 9月21日 に祖父の後を継いでフォードの社長となった[ 17] 。
エドセル・フォードは、デトロイトの歴史の中で最も重要な芸術の後援者の一人であった。デトロイト芸術委員会の会長として、彼はディエゴ・リベラ にデトロイト美術館 (DIA)の有名なデトロイト産業の壁画 (英語版 ) を描くよう依頼した[ 18] 。 彼はアフリカ美術の初期のコレクターであり、彼の貢献はDIAのオリジナルのアフリカ美術コレクションの中核の一部となった。彼の死後も、彼の家族は多大な貢献を続けた。
彼は1926年 にリチャード・バード 提督が北極点 を越えた歴史的な飛行を含む、探検隊の資金を援助した。バードは彼の南極大陸 探検でもエドセルの資金援助を受け、フォード山脈 (英語版 ) に彼の名を冠した。他の南極へのオマージュとしては、フォード山塊 (英語版 ) 、フォード・ヌナタクス (英語版 ) 、フォード山頂 (英語版 ) などがある。
デトロイト都市圏のインターステート94 (英語版 ) は、エドセル・フォード・フリーウェイと名付けられている。
1957年 9月、フォード・モーターは、エドセル と呼ばれる新しい自動車部門を立ち上げた。エドセル部門には、エドセル・サイティーション (英語版 ) 、エドセル・コルセア (英語版 ) 、エドセル・ペーサー (英語版 ) 、エドセル・レンジャー (英語版 ) 、エドセル・バミューダ (英語版 ) 、エドセル・ヴィレジャー (英語版 ) 、エドセル・ラウンドアップ (英語版 ) の各車種が含まれていた。エドセル部門は、商業的に大きな失敗をしたと記憶されている。初年度はそれなりに売れたが、1960年 モデルが登場して間もなくエドセル部門は廃止された。
エドセルとエレノア・フォードの家
エレノアとエドセル・フォード、 1924年
1929年 、フォード一家は、ミシガン州グロース・ポイント・ショアーズのセントクレア湖 の湖畔にある、アルバート・カーン 設計の新居「ゴークラー・ポイント」に引っ越した。敷地内の庭園は、環境デザイナー のイェンス・イェンセン が伝統的なロングビューで設計したもので、長い草原を下ると、ドライブの先に家全体が見えるようになる前に、訪問者は邸宅を垣間見ることができる[ 19] 。
また、彼はメイン州 のマウントデザート島 (英語版 ) のシールハーバー (英語版 ) にあるエドセルとエレノアの夏の別荘スカイランズの庭園も設計した[ 19] [ 20] 。 イエンセンは1922年 から1935年 にかけて、ミシガン州の他の2つの住宅、ヘブンヒルの設計を行った[ 19] 。 ヘブンヒルは現在、ミシガン州南東部のホワイトレイク・タウンシップ (英語版 ) 近くのハイランド・レクリエーション・エリア (英語版 ) 内にあり、ミシガン州の歴史的建造物と州の自然保護区の両方に指定されている。イエンセンの景観要素は、樹木、植物、動物の多様性と美学、歴史、自然を組み合わせたものである[ 21] [ 22] 。
1943年、エドセル・フォードはゴークラー・ポイントで没した。妻のエレノアは1976年 に没するまでここに住み続けた。彼女の願いはこの敷地を「公共の利益のため」に使用する事であった。エドセルとエレノア・フォードの家は現在一般公開されている[ 23] 。 87エーカー(35.2ヘクタール)の敷地にあるこの家には、フォード家のオリジナルの骨董品や美術品の優れたコレクションと湖畔の歴史的な景観の敷地 がある。現在はツアー、授業、講演会、特別イベントなどが開催されている。この敷地はアメリカ合衆国国家歴史登録財 に指定されている[ 24] 。
脚注
^ “Henry Ford ”. Ford Motor Co.. 2007年4月5日時点のオリジナル よりアーカイブ。2007年2月14日閲覧。 “世界大戦の間の数年間は、慌ただしい拡大の時期であった。 1917年、フォード・モーター・カンパニーはトラックとトラクターの生産を開始した。1919年には、ミシガン州ディアボーンに巨大なルージュ工場を建設するために必要な数百万ドルをめぐって株主と対立し、ヘンリー・フォードとその息子エドセルが会社を完全所有する事になった。1943年のエドセル・フォードの没後、悲しみに暮れるヘンリー・フォードが社長業を再開した。第二次世界大戦が終わると、ヘンリー・フォードは2度目の辞任をした。 1945年9月21日、彼の最年長の孫であるヘンリー・フォード2世が社長に就任した。ヘンリー・フォード2世は、戦後初の自動車を生産している間も、競争の激しい自動車産業の主役として戦前のような地位を取り戻すため、会社の再編成と分散化を計画していた。 ヘンリー・フォード2世は、戦後から1980年代にかけて、フォード・モーター・カンパニーで強力なリーダーシップを発揮した。1945年から1960年までは社長、1945年から1979年までは最高経営責任者を務めた。 1960年から1980年までは取締役会の会長を務め、1980年からは1987年に没するまで財務委員会の委員長を務めた。”
^ “Henry Ford Estate: The Ford Family ”. HenryFordEstate.org. 2007年4月11日閲覧。
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^ “Josephine Clay Ford, 81, a Philanthropist, Dies” . The New York Times . Associated Press . (2005年6月3日). https://www.nytimes.com/2005/06/03/us/josephine-clay-ford-81-a-philanthropist-dies.html . "自動車の先駆者であるヘンリー・フォードのただひとりの孫娘であり、慈善家でもあったジョセフィン・クレイ・フォードが水曜日に没した。 彼女は81歳で、グロスポイント・ファームズ郊外に住んでいた。彼女の死は、フォード・モーター・カンパニーの会長である甥のビル・フォード・ジュニア が同社の従業員に宛てた電子メールのメッセージで公表された。そのメッセージでは、死亡した場所や死因については触れられていなかった。「ドディ」と呼ばれていたフォード夫人は、夫とともに財団を設立し、数百万ドルの寄付を行っていた。 フォード夫人は1923年、エドセル・フォードとエレノア・フォードの4人の子供の内の3番目に生まれた。エドセルはヘンリー・フォードのひとり息子である。"
^ “Josephine C. Ford is Wed in Michigan; Granddaughter of Founder of Motor Company Is Married to Walter B. Ford 2d, U.S.N.R.” . The New York Times . (1943年1月3日). https://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9807EED81E3DE533A25750C0A9679C946293D6CF ⚠
^ 1930 United States Census for Detroit, Michigan.
^ “Martha Parke Ford Makes Debut” . The New York Times . (1967年6月17日). https://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9800E3DD103AE63ABC4F52DFB066838C679EDE . "ウィリアム・クレイ・フォード 夫妻の娘であるマーサ・パーク・フォードが、今夜、ミシガン州グロス・ポイント・ショアーズ近くのレイク・ショア・ロードにあるフォードの家で行われたレセプションで社交デビューした。"
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