エドゥアルト・フォン・ザクセン=アルテンブルク
エドゥアルト・フォン・ザクセン=アルテンブルク(Eduard von Sachsen-Altenburg, 1804年7月3日 - 1852年5月16日)は、ドイツのザクセン=アルテンブルク公家(1826年まではザクセン=ヒルトブルクハウゼン公家)の公子で、バイエルンの軍人、陸軍中将。 生涯ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公(1826年よりザクセン=アルテンブルク公)フリードリヒと、その妻でメクレンブルク=シュトレーリッツ大公カール2世の娘であるシャルロッテ夫妻の間の末息子として、ヒルトブルクハウゼン(現在のテューリンゲン州ヒルトブルクハウゼン郡)で生まれた。洗礼の代父はイギリス王家のケント公エドワード(ヴィクトリア女王の父)である。 バイエルン王国軍に入隊し、第6猟騎兵連隊(Königlich Bayerisches Chevaulegers-Regiment „Prinz Albrecht von Preußen“ Nr. 6)の大尉に任官した。その後、第1猟騎兵連隊の連隊長に昇進している。1832年、姉のバイエルン王妃テレーゼの息子オットーがギリシャ王国の統治者に迎えられると、バイエルン軍分遣団の団長として甥オットーに同行し、その後ギリシャの暫定首都ナフプリオの首都長官を務めた。 1834年にバイエルンに帰国して軍隊に復帰、1848年には陸軍中将となった。1844年にはバイエルン王室の聖フーベルトゥス騎士団(Hubertusorden)の騎士に叙任されている。第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争では、バイエルン軍の将軍として、テューリンゲン諸侯の加わっているドイツ連邦の側に立って戦い、特にドゥッブル堡塁の戦いでは戦功を立てた。 義兄であるバイエルン王ルートヴィヒ1世とは親友の間柄で、2人の間のたくさんの往復書簡が残っている。1843年にはミュンヘンの動物愛護団体の会長に就任した。またローラ・モンテス騒動が起きるまでは姉テレーゼ王妃にも可愛がられており、多額の資金援助を受けていたほか、ミュンヘンに屋敷まで買ってもらっていた。またテレーゼからザイディンクシュタットの狩猟用城館(Jagdschloss Seidingstadt)を譲られている。 1852年にミュンヘンで死去し、遺骸はザクセン=アルテンブルク公爵家の霊廟に安置された。 子女1835年7月25日にジグマリンゲン(現在のバーデン=ヴュルテンベルク州ジグマリンゲン郡)において、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯カールの娘アマーリエ(1815年 - 1841年)[注釈 1]と結婚し、間に2男2女の4人の子供をもうけた。アマーリエとは1841年に死別した。
1842年3月8日にグライツ(テューリンゲン州グライツ郡)において、ロイス=グライツ侯ハインリヒ19世の娘ルイーゼ(1822年 - 1875年)と再婚し、間に1男1女の2人の子女をもうけた。 系譜
脚注参考文献
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