エディ・アダムズ (写真家)
エドワード・トーマス・アダムズ(Edward Thomas Adams、1933年6月12日[1] - 2004年9月19日[1])は、アメリカ合衆国の写真家で、特に戦場カメラマンとして知られる。 概要報道写真家として、1950年代の朝鮮戦争から1990年代の湾岸戦争まで、合計13の戦争で取材を行った[2][1]。ベトナム戦争において路上で銃殺刑に処されたグエン・ヴァン・レムの射殺される瞬間を捉えた写真(『サイゴンでの処刑』)で特に知られ、この写真で1969年にピューリッツァー賞を受賞した[3]。 『パレード』誌を中心に、人物写真(ポートレイト)においても活躍し、数々の著名人を撮影した[2]。 経歴ペンシルバニア州ニュー・ケンジントンで生まれた[1]。 高校に通っていた頃から、結婚式などのイベントでカメラマンを務めて報酬を得たり[1]、地元の新聞である『ケンジントン・デイリー・ディスパッチ』紙のために写真撮影したりしていた[4]。 1951年にアメリカ海兵隊に入隊し、従軍カメラマンとして朝鮮戦争に従軍した[5][3]。 3年ほどの従軍生活を終えた後に退役し、以降は故郷のニューケンジントンの新聞社や、『フィラデルフィア・ブレティン』紙で働き、1962年にAP通信に入社した[5][1]。ほどなく、AP通信の中でも最高のカメラマンという評価を得るようになった[3]。 『サイゴンでの処刑』(1968年)→詳細は「グエン・ヴァン・レムの処刑」を参照
![]() アダムズはベトナム戦争に報道写真家として数度派遣され、3度目のベトナム派遣となった1968年、テト攻勢序盤の2月1日にグエン・ヴァン・レムの処刑に偶然立ち会い、代表作となる『サイゴンでの処刑』(Saigon Execution)を撮影した[3]。 この写真はAP通信により全世界に配信されて衝撃を与え、ベトナム戦争の反戦運動に大きな影響を及ぼした。撮影者であるアダムズは数々の賞を受賞し、非常によく知られた写真家となった。一方、処刑に至る背景事情[注釈 1]が伝わらぬままこの写真が戦争の残虐性を示すものとしてのみ知れ渡ったことで、被写体となったグエン・ゴク・ロアン(処刑を執行した人物)は汚名を負うことになった。(詳細は当該記事を参照) 若い頃のアダムズはピューリッツァー賞を受賞することを熱望しており、この写真で実際に同賞を受賞したのだが、ロアンを苦しめることになったこの写真を撮影したことをアダムズは生涯に渡って後悔した[6]。
『笑顔のないボート』(1977年)『笑顔のないボート』(1977年・組写真)。6枚の内の2枚。 1972年から1976年にかけてはタイム社の『タイム』誌・『ライフ』誌に移り、1976年から1980年までは再びAP通信に戻って特派員を務めた[5][1]。 1977年、ベトナム戦争の終結から2年後、共産主義勢力(ベトナム社会主義共和国{旧北ベトナム})によって祖国を追われたベトナム難民(ボートピープル)を撮影した『笑顔のないボート』(Boat of No Smiles)という組写真を発表した[4]。この組写真は当時の米国大統領ジミー・カーターを動かし、カーターは米海軍に命じてタイランド湾を漂流していた難民たちを保護させ、米国政府におよそ20万人におよぶベトナム難民を受け入れさせる契機となった[5][2][4]。 多くのベトナム難民を助けることにつながったことから、後年、アダムズはこの『笑顔のないボート』を自身の作品の中で最も誇りに思うと述べている[8]。
人物写真家としての活躍1980年に『パレード』誌に移り、以降は死去する2004年まで同誌の特派員を務めつつ、『タイム』、『ヴォーグ』、『ヴァニティ・フェア』など、数々の雑誌(グラフ誌)にアダムズの写真は掲載された[5]。 『パレード』誌では、アダムズの写真が数百回に渡って表紙に使われた[1]。この間、政治、ファッション、ショービジネスなどの分野で幅広く撮影を行っており、ポートレート写真としては、リチャード・ニクソンからジョージ・H・W・ブッシュまでの6人のアメリカ大統領[6]、教皇ヨハネ・パウロ2世、鄧小平、フィデル・カストロ、ミハイル・ゴルバチョフなど、元首クラスの人物だけでも被写体となった人物は多数に及ぶ[2]。 アダムズはニューヨーク州内の自身の農場で、若い写真家向けに「エディー・アダムズ・ワークショップ」という講座を主宰し、1988年から毎年開催して後進の指導に当たった[2][1][6][3]。 こうした活動をする間にも戦地の取材に引き戻され[9]、湾岸戦争(1990年 - 1991年)まで戦場カメラマンとしても引き続き活動した[2][1]。 死去2004年5月に筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断され、同年9月18日、ニューヨーク市の自宅で亡くなった[2][1]。71歳没[1]。 アダムズの死去から5年後[6]、遺された写真は、遺族の手によって、ドルフ・ブリスコー・アメリカ史センターに寄贈された[5][6]。 評価
『パレード』誌を出版していた出版社の会長であるウォルター・アンダーソンは、アダムズについて、折衷的で、比類なく、気難しい人物で、その写真は緊張感をよく捉えていたと評している[2]。 AP通信の写真編集部長として共に働いたハル・ビュエルは、アダムズについて、(芸能分野の人物写真家としても大成しているが)本質的には「堅苦しいニュース」向きの写真家であり、常にストーリーを物語るような写真を撮ることに鋭く焦点を当てており、完璧主義者で、撮影に当たって機会を逸したり、自身が設定した高い基準を満たしていなかったりすると、そのことに対して非常に自己批判的だった、と評している[2]。 主な受賞アダムズはそのキャリアにおいて、500以上の賞を受賞した[2]。主な賞を以下に示す。
アダムズを扱った作品
脚注注釈
出典
作品集
参考資料
外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia