エティエンヌ2世 (ブロワ伯)
エティエンヌ2世アンリ (Étienne II Henri de Blois、1045年 - 1102年3月19日)は、ブロワ伯、シャトーダン伯、シャルトル伯、モー伯であった人物。サンセール、サン・フロランタン、プロヴァン、モントゥロー、ヴェルテュ、ウルシー=ル=シャトー、シャトー=ティエリ、シャティヨン=シュル=マルヌ、モンフェリクスの領主でもあった。 生涯ブロワ伯ティボー3世とガルザンド・ド・メーヌの子。1074年よりティボー3世はエティエンヌに実質的に統治を任していたが、1089年の父の死によってブロワ伯となった。 エティエンヌ2世は第1回十字軍を率いた首領の1人であり、妃のアデルに十字軍の進捗状況についてしばしば熱心に手紙を書いていた。また1097年のニカイア攻囲戦における軍評議会の長であった[1] 。長いアンティオキア攻囲戦の最中の1098年、聖地エルサレムまでの道を築くという十字軍の誓いを果たすことなく帰国した。彼はアデルの圧力を受けて2度目の巡礼を行い、一部の郎党は途中で帰国してしまった、小規模の1101年の十字軍に参加した。 1102年、エルサレム王国に滞在していたエティエンヌ2世は、ファーティマ朝とのラムラの戦いに参加して戦死した。57歳であった[2]。 子女1080年、シャルトルでノルマンディー公兼イングランド王ウィリアム1世(征服王)の娘アデル・ド・ノルマンディーと結婚し、8子をもうけた。
アデルの子であることが証明されていない子女は以下のとおりである。[3]
14世紀後半の情報により、エティエンヌにはエマという庶子がいたことが判明した。エマはアングロ・ノルマン貴族ハーバート・オブ・ウィンチェスターの妻で、ヨーク大司教ウィリアムの母であった[4] 。しかし近年の研究では、彼女の異なる親子関係を示唆している[5]。 脚注
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