ウジェーヌ2世・ド・リーニュウジェーヌ・フレデリック・マリー・ラモラル・ド・リーニュ(Eugène II Frédéric Marie Lamoral, 11e prince de Ligne, 1893年8月10日 ブルイユポン城 - 1960年6月26日 ベルイユ)は、ベルギーの貴族・外交官。第11代リーニュ公、アンブリス公及びエピノワ公、オーストリア系金羊毛勲章受章者[1][2]。 生涯ベルイユに近い、トゥルネーとアトの間の一帯の土地を領した一族を祖とし、家系を11世紀に遡ることのできるベルギーの高級貴族リーニュ家に生まれた[3]。リーニュ公エルネストと、その妻でロラン・ド・コッセ=ブリサック侯爵の娘であるディアーヌの間の長男。1917年2月28日パリにて、ポワ公フランソワ・ド・ノアイユの娘フィリッピーヌ(1898年 - 1991年)と結婚した。 哲学・文学を大学で治めた後、1920年外交官試験に優の成績で合格した。以後、各国駐在大使館員としてブカレスト、パリ、マドリード、ロンドン、ワシントンD.C.と欧米の大都市を転々とした。1920年代にパッカード社製乗用車でインド旅行をしている。1925年には妻とベルギー委任統治領ルアンダ=ウルンディに滞在した[4]。1931年アフリカでの自動車探検隊に参加し、サハラ砂漠を縦断してベルギー領コンゴ及びその南部ルバ地方に到達、またこのときハルツーム、カイロ、ルクソール及びアレクサンドリアなどアフリカ諸都市をも訪れた[5]。 1937年父の死と同時にリーニュ公位を継承した。1940年ナチスのベルギー占領に際しては、アントウェルペンでベルギー軍の自動車部隊の司令官として防衛に従事した。ナチス占領中も、居城ベルイユ城にユダヤ人の子供26人を匿い、強制収容所への移送から守った[6]。また300人のユダヤ人に避難場所を用意し命を救った[7]。こうした業績から、1975年、ヤド・ヴァシェムはリーニュ公に「諸国民の中の正義の人」の称号を贈った[8]。 1947年から1951年まで駐インド大使としてニューデリーに[9]、1951年から1958年まで駐スペイン大使としてマドリードに赴任した。スペイン大使の職は、ポール=アンリ・スパーク内閣が任命した前任の大使ベイエンス男爵が、スペイン総統フランコが保護していたベルギー人コラボのレオン・デグレルの身柄引き渡しを要求してフランコの怒りを買い、退任させられたために後任となったものである。 子女妻との間に2男2女があった。
引用・脚注
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