ウェールズの君主ウェールズの君主(ウェールズのくんしゅ)では、イングランド王エドワード1世に征服される以前のウェールズに存在した君主(王、プリンス)について説明する。13世紀にサウェリン・アプ・グリフィズがウェールズのほぼ全域を支配し、ウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)を称した。この大公家はエドワード1世によって滅亡したが、傍系からテューダー朝が出ている。古プリンス・オブ・ウェールズとも。 ノルマン征服以前ウェールズの諸王は、4世紀頃にスコットランドから渡来した戦士団長キネザを祖とするとされる。アングロ=サクソン勢力がブリテン島に攻め寄せた6世紀のウェールズには、北部にはマーイルグン、南部にはヴォルティポリウス、中部にはキンラスという名の支配者が居たことが確認されている。アングロ=サクソンの波はウェールズにも押し寄せ、634年にはグゥイネッズの王カドゥアソンが戦死しているが、これは来るべきイングランドとの対決の前哨戦とも言えよう。 その後、ウェールズには、グゥイネッズ、ポウィス、ダヴェド、ケレディジョン、モルガヌグの小王国が分立したが、このうち、グゥイネッズのカドゥアラドルはアングルシー島のアベルフラウに王宮を建設している。 東隣のイングランドでは、8世紀には、七王国のひとつアングル人系のマーシア王国にオファ王(在位: 757年 - 796年)が現れて覇を誇り、大陸のフランク王国のシャルルマーニュと対等にわたり合って力を誇示していた。しかし、このオファ王も西のウェールズに手を焼き、ウェールズ・イングランドの境に「オファの防塁」を造り上げた。 9世紀に入るとウェールズ統一に向けての動きが活発することになる。すなわち、825年に即位したメルヴィン・ヴリッヒは婚姻政策を通して勢力を拡大し、その息子で844年に即位したロドリはポウイス、セイサスグを併合し、同時期に押し寄せたヴァイキングも撃退する等して後に大王と呼ばれるようになった。 しかし、その死後に6人の息子達によって王国が分裂したこと(なお、この時に王家は大別してグゥイネッズ家とポウイス家に分裂し、さらに後者からデハイバルス家が生まれた)により事態は一変する。これに乗じたヴァイキングは再び動きを活発化し、セイサスグを継承したカデスはこれに耐えられずに、アルフレッド大王に庇護を求めたからである。ここにウェールズ君主のイングランドへの服従が始まった言っても良い。 カデスの息子のハウエルは婚姻政策に拠りダヴェドを獲得し、父王の死後には弟のクラドグと共にセイサスグを統治するが、後にこれを追放して920年頃には両王国を併せたデハイバルス王国を形成した。さらに、従兄弟でグゥイネッズを統治していたイドゥアル・ヴォイルが942年に戦死すると同地を征服し、加えてポウイスも征服し南東部を除く全ウェールズを統一した。他にも、自分の名を刻んだ硬貨を発行したり、ウェールズ法という慣習法を制定する等して、「善良王」という名を与えられた。 950年にハウエルが死ぬと王国は再び分裂して、イングランドとの友好も崩壊した。孫のマレディズは986年に再統一するも長続きせず、混乱が終息するのは、その外孫であるサウェリン・アプ・グリフィズの出現を待たなければならない。1039年にグゥイネッズとポウイスの王に即位したグリフィズ・アプ・サウェリンは、同年にリード・ア・グロイス(Rhyd y Groes)においてマーシア王国軍を撃破して支配権を確立し、1044年までにはセイサスグを征服している。イングランドからの支援を受けたデハイバルスの支配者であるグリフィズ・アプ・リゼルフが最大の障壁であったが、1055年に彼が死去すると、南東部を除く全ウェールズを再統一することに成功した。その後もイングランド軍の侵略を撃退することに成功し、全ウェールズおよび南西イングランドのごく一部の支配権を認められたが、1062年にウェセックス伯ハロルドの侵攻に伴い大打撃を受け、翌年には家臣に裏切られて殺された。 イングランドとの戦い1066年に、ノルマンディー公ウィリアムによってイングランドが征服されると(ノルマン・コンクエスト)、以後のイングランド国王はウェールズ征服を宿願と見なし、軍を進めることになる。当時のウェールズには、グリフィズ・アプ・ サウェリンの孫でグゥイネッズを統治するグリフィズ・アプ・カナンとデハイバルスを統治するリース・アプ・テウドゥルが権力を二分する形でイングランドの西進を抑えていたが、1093年にリースが死去するとイングランドはこれに乗じて一斉に軍を進めた。そして、1110年に即位したヘンリー1世はウェールズを己の直轄地とする政策を打ち出していく。 ヘンリー1世即位時のウェールズは、デハイバルス、ポウイス、グゥイネッズの3つに分かれていた。デハイバルスではリースの跡を継いだ息子のグリフィズ・アプ・リースの許で王権が著しく弱体化し、ポウイスの侵略を受け、そのポウイスはアルゥイストリからケレディジョン、マエリエニッズまで勢力を拡大するものの、イングランドおよびグゥイネッズの攻撃を受けて弱体化した。残るグゥイネッズだが、グリフィズ・アプ・カナンの許で東はクルゥイッド川流域から南はマエリエニッズまで領土を拡大し、またイングランドとも友好関係を結ぶなどして、良く統治を保った。加えて、オーワイン・グゥイネッズの代にはヘンリー1世死去に伴うウェールズへの影響力低下に助けられ、1136年から始まる遠征によってアングルシー島からディー川河口までの北部海岸全体を制することに征服した。当時の詩人は彼をイングランドからの解放者と称えた。一方、一時は弱体化したポウイスとデハイバルスもそれぞれ、マドグ・アプ・マレディズ、リース・アプ・グリフィズの許で勢力を回復した。こうして11世紀後半のウェールズは、グゥイネッズ、ポウイス、デハイバルスの3つの公国に分けられた。 3公国の中で最初に指導的立場にあったのがデハイバルス公国である。リース・アプ・グリフィズは南西ウェールズの制圧に成功し、国内的にもウェールズ法の再編纂やシトー派修道院に援助を行うなどして国内の充実を図った。しかし、リチャード1世獅子心王に対して戦いを挑んだのが躓きの始まりであった。イングランドおよびポウイス、グゥイネッズの大攻勢を受けて、獲得した領土のほとんどを奪われたからである。加えて、リース死後のその息子達の相続争いで公国は分裂状態となった。 次に指導的立場を握ったのがポウイス公国である。12世紀頃の同公国は南北に分裂しており、南部のグウェンウィンウィンは全ウェールズ人のリーダーにならんとするもイングランドに阻まれ、息子のグリフィズはイングランドに進んで臣従して同化の道を歩んだ。北部のマドグ・アプ・マレディズは生き延びることに必死であった。そして、残るグゥイネッズの許でウェールズ大公国が成立するのである。 ウェールズ大公の成立1194年に全グゥイネッズを掌握し、翌年に公位に就いたサウェリン・アプ・ヨルウェルスは、全ウェールズ統一を目指して動き出すことになる。1199年には全北ウェールズ公の称号を帯び、イングランド王ジョンもこれを認めて庶子ジョウンを嫁がせている。しかし、サウェリンが中部ウェールズに対して支配権を強化すると、ジョンはそれまでの妥協策を捨て、1211年から1212年にかけてグゥイネッズに対して軍を進めた。サウェリンはこの遠征をむしろ好機と見なした。全ウェールズ人を団結させる理由を得たからである。これは成功し、サウェリンは全ウェールズの最高指揮官の地位に上り詰め、イングランド軍に対して大反撃をかけた。1217年には東南部を除く全ウェールズを征服するのに成功し、翌年のウスター条約でウェールズの支配者と認められた。 イングランドはこの条約を無視して1222年に反攻を開始し、その結果サウェリンは守勢に回ることを余儀なくされたが、全ウェールズの支配権は終始保持することに成功した。サウェリンは他にも自らを、全ウェールズの君主やグゥイネッズ公と称したりもした。これらの功績により、彼は後世大サウェリンと呼ばれるに至った。 1240年にサウェリンが死去すると、嫡子ダヴィズと庶子グリフィズの間で相続を巡ってウェールズが二分される。ヘンリー3世はこれに乗じて大攻勢をかけた。その結果、1246年にダヴィズは戦死し、翌年のウッドストック条約により、ウェールズはほぼイングランドの支配下に置かれることになったのである。 この屈辱的な状態の中から脱出しようと試みたのが、グリフィズの息子であるサウェリン・アプ・グリフィズである。彼は1250年にポウイス、デハイバルスの領主と密かに同盟を結んで、1255年にはグゥイネッズの支配権を握った。そして全ウェールズ人のリーダーとなったサウェリンは1257年から1258年にかけて、メイリオニズ、ケレディギオン北部、ビルス、ポウィスを奪回し、国内の対応に追われたヘンリー3世もこれを認めざるを得なかった。1258年頃からサウェリンは自らをウェールズ大公を称しているが、ここにウェールズ大公が成立したと言っても良い。加えて、1261年以降は、ポウィス中部や南東ウェールズに遠征し、マエリエニッズ、アベルホンジ、グウェントを獲得した。そして、1267年に結ばれたモンゴメリ条約により、ウェールズ大公の地位を得た。ウェールズ大公国が成立したのである。 滅亡しかし、サウェリンの支配は磐石なものではなく、特に南東部で反抗の動きがみられた。1272年にエドワード1世が即位すると事態はさらに悪化する。エドワード1世は サウェリンが自らに対して臣下の礼を取らなかったことを理由に、ウィリアム征服王以来の宿願であった全ウェールズ征服に乗り出したからである。1274年に、サウェリンの弟であるダヴィズと南ポウイスの領主であったグリフィズ・アプ・グウェンウィンウィンがエドワード1世の許に亡命すると事態は有利に動いた。かくして、エドワード1世は1277年に15,600人にも及ぶ大軍でウェールズに攻め入り、サウェリンの方は――エドワード1世の離間策によって――力を結集することができずに大敗し、秋に結ばれたアベルコンウィ条約で封建家臣とされることを余儀なくされたのである。 もちろん、サウェリンはこの隷属状態に甘んじている訳にはゆかず、機を見て独立せんとして1282年に挙兵した。しかし、圧倒的な装備の差によって窮地に追い込まれ、同年12月11日にビルス郊外で戦死した。弟のダヴィズも翌年の6月に捕らえられて処刑された。ここにウェールズ大公家は滅亡した。 以降、ウェールズ大公の称号は、イングランド王の法定推定相続人に対して授けられた(プリンス・オブ・ウェールズの頁を参照)。 テューダー朝に繋がる血筋ウェールズ大公の本家は滅亡したが、傍系は生き残った。テューダー朝はその一つである。この家系はデハイバルス王家に属すディネフル家出身で、サウェリン・アプ・ヨルウェルスの宮廷で家老を務めたエドナヴェド・ヴァハンを祖とする。ヴァハンは、リース・アプ・グリフィズの娘で大サウェリンの大叔母であるグウェンシアン(Gwenllian ferch Rhys; 1178年頃 – 1236年)と結婚した。2人の孫である老ティディル(テューダー)はエドワード1世に取り入ることに成功し、その玄孫オウエン・テューダーはヘンリー5世の未亡人キャサリンと秘密裏に結婚した。そして2人の孫であるヘンリー7世が薔薇戦争を勝ち残り、イングランドの王冠を手に入れた。ヘンリー7世は自らの王権を正当化するために、アーサー王伝説と絡めつつ、ウェールズ大公家に繋がる血筋を最大限に利用した。 ウェールズの統治者の一覧ウェールズ征服が1282年に完了する前は、ウェールズは数多くの独立した王国から構成されていた。最も重要なのがグゥイネッズ、ポウイス、デハイバルス(元々はケレディジョン、セイサスグ、およびダヴェド)、グウェント、およびモルガヌグであった。国境の変化と世襲財産の均等分割は、ウェールズ全土を支配したプリンスがほとんどいなかったことを意味した。 デハイバルス909年、ダヴェドは(ケレディジョンを含む)セイサスグと合併しデハイバルスとなった。 ケレディジョン
ダヴェド
セイサスグ
マナウ家
デハイバルス
デハイバルスは1093年から1155年までノルマン人の所有物だった。
1234年から1283年まで、デハイバルスはグゥイネッズ公の支配下にあった。
グゥイネッズ→詳細は「グゥイネッズの統治者の一覧」を参照
グゥイネッズ王国
ウェールズ大公
アベルフラウ公およびスノードンの領主
モルガヌググラウィシンググラウィシング
イェスティンは独立したモルガヌグの最後の統治者だった。モルガヌグはその後ノルマン人の所有物となり、グラモーガン領地となった。 グエント
イェスティンは独立したモルガヌグの最後の統治者だった。モルガヌグはその後ノルマン人の所有物となり、グラモーガン領地となった。
ポウイスポウイス王グエルセリオン家
マナウ家
マスラヴァル家のポウイス公
1160年からポウイスは2つの地域に分かれた。南部は後にポウイス・ウェヌゥイヌゥイン(グウェンウィンウィン・アブ・オーワイン・"カヴェイリョグ"・アプ・マドグに因む)、北部はポウイス・ヴァドグ(マドグ・アプ・グリフィズ・"マエロル"・アプ・マドグ)と呼ばれた。 脚注
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