ウィンストン・アブレイユ
ウィンストン・レオナルド・アブレイユ・ソレール(Winston Leonardo Abreu Soler, 1977年4月5日 - )は、ドミニカ共和国サンチェス・ラミレス州コツイ出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 経歴プロ入りとマイナーリーグ時代1993年7月2日、当時16歳でアトランタ・ブレーブスと契約。 1994年からはマイナーリーグで主に先発投手として試合に出場し、1996年までの3年間で38試合に登板するも、1997年は右肘靭帯のトミー・ジョン手術を受けたため、全休した[1]。 1998年に復帰し、1999年はA級とA+級合計で10勝をマーク[1]。2000年は初めてAA級やAAA級に昇格したものの、シーズンの大半はA級でのプレーであった。またこの頃からリリーフとしての登板が中心になった。 2001年は、傘下AA級グリーンビル・ブレーブスで34試合に登板して、9月までに3勝5敗、防御率4.64という結果に終わった[1]。9月6日にルディ・シアネスとのトレードでサンディエゴ・パドレスへと移籍[2]。パドレス傘下での登板機会はなかった。 2002年3月19日にトレードでシカゴ・カブスへと移籍した[2]。傘下AA級ウェストテン・ダイヤモンドジャックスで11試合に登板して、1勝0敗、防御率7.20の成績に終わり、4月30日に自由契約となった[2]。5月9日にカンザスシティ・ロイヤルズと契約した。傘下AA級ウィチタ・ラングラーズで23試合に登板して、3勝0敗2セーブ、防御率3.32の成績を残した[2]。オフの10月15日にFAとなった[2]。11月22日にニューヨーク・ヤンキースと契約した。 2003年は、ヤンキースのスプリングトレーニングに参加したが、3月21日に自由契約となり[2]、この年はいずれの球団にも所属せず浪人することになった[2]。 2004年は、1月12日にロサンゼルス・ドジャースと契約して球界復帰を果たしたが[2]、6月10日に自由契約となった。6月14日にアリゾナ・ダイヤモンドバックスと契約。この年は両球団のAAA級を中心に45試合に登板し、3勝3敗3セーブ、防御率6.31の成績を残した[2]。 2005年は、AAA級ツーソン・サイドワインダーズで開幕を迎え、27試合に登板して、2勝3敗2セーブ、6.48の成績を残した[2]。6月12日にメキシカンリーグのオアハカ・ウォーリアーズにレンタル移籍し、ストッパーとして18試合に登板、4勝0敗10セーブ、防御率1.35という好成績を残した[2]。 オリオールズ時代2005年12月20日にボルチモア・オリオールズと契約[2]。 2006年は、AAA級オタワ・リンクスで自己最高の数字を残し、8月1日に遂にメジャー初昇格を果たした。そして8月6日のニューヨーク・ヤンキース戦の9回にメジャー初登板。この時点で29歳、マイナーでの通算登板数は294試合にも上っていた[1]。初めての対戦打者はアレックス・ロドリゲスで、見逃し三振に打ち取った[3]。この年は最初の4試合で6.1回を無失点に抑えるなど力投していたが、その後の3登板で10失点(自責点9)を喫するなど、シーズンでは防御率10.13に終わった。オフの10月16日にFAとなった[2]。 ナショナルズ時代2007年3月8日にワシントン・ナショナルズとマイナー契約を結んだ[4][2]。5月8日にメジャーでのシーズン初登板し、最初の11試合に投げた時点では防御率2.31を記録していたが、5月の終盤から6月にかけて調子を崩し、マイナーへと降格。その後、ロースターの拡大に伴って9月にメジャーに復帰し、7試合に登板。シーズンでは前年を大幅に上回る26試合に登板した。また、この年はAAA級でも37試合で防御率1.20、WHIP0.84と好投した[1]。オフの10月11日にFAとなった[2]。 ロッテ時代2007年12月23日に千葉ロッテマリーンズと年俸4600万円(推定)の1年契約を結んだ。 2008年はシーズン序盤こそ一軍に定着し中継ぎである程度活躍したものの、5月に右肘痛により戦線離脱。6月6日に右肘の骨片除去手術を受けると[1]、それ以降は一軍、二軍ともにマウンドにあがることができず、不本意な結果となってしまった。その後、12月2日に自由契約公示された。なお、千葉マリンスタジアムでの登板時テーマ曲はジェロの「海雪」であった。 ロッテ退団後2009年2月6日、タンパベイ・レイズにマイナー契約で入団し、6月14日のコロラド・ロッキーズ戦でおよそ2年ぶりにメジャーのマウンドに立つが、レイズでは2試合に投げただけで6月27日にDFAとなり、7月2日にクリーブランド・インディアンスに移籍した[1]。ところがインディアンスでも3試合に投げただけで8月1日にDFAとなり、その5日後の8月6日(前の契約から半年後)にレイズと契約[1]。短期間で古巣に復帰することになった。結局その後メジャーで投げる機会はなく、シーズンでは5試合登板に終わったが、AAA級ダーラム・ブルズでは、37試合に登板して3勝1敗15セーブ、防御率1.94、WHIP0.77と安定した働きを見せていたこともあり、シーズン終了後にレイズと契約を延長した。 2010年はAAA級ダーラムで51試合に登板して0勝4敗23セーブ、防御率2.28、WHIP1.01を記録して、2年続けて結果を残したものの、メジャーでの登板機会には恵まれず、オフの11月6日にFAとなった[1]。 2010年11月29日にトロント・ブルージェイズとマイナー契約を結び、2011年のブルージェイズのスプリング・トレーニングに参加することになった[1]。開幕はAAA級ラスベガス・フィフティワンズで迎え、この年のメジャー昇格はなかった。 2012年はメキシカンリーグのメキシコシティ・レッドデビルズと契約。ストッパーとして45試合に登板し、4勝1敗15セーブ、防御率3.83を記録した[2]。 2013年、メキシカンリーグのシウダーデルカルメン・ドルフィンズとベラクルス・レッドイーグルスでプレーしていたが、5月7日にアトランティックリーグのブリッジポート・ブルーフィッシュと契約した[5]。ブリッジポートでは54試合に登板して、2勝0敗12セーブ、防御率1.47の好成績を記録[2]。 2014年もブリッジポート・ブルーフィッシュでプレー。54試合に登板して、3勝7敗17セーブ、防御率4.85という成績だった。 2015年はアメリカン・アソシエーションのジョプリン・ブラスターズと契約。オフはドミニカ共和国のウィンターリーグでプレー。 2016年もジョプリン・ブラスターズでプレーしていたが、6月24日にメキシカンリーグのメキシコシティ・レッドデビルズと契約。8月20日にアメリカン・アソシエーションのウィニペグ・ゴールドアイズと契約。 2017年4月20日にアメリカン・アソシエーションのクリバーン・レイルローダーズと契約。10月30日に自由契約となった。 2019年1月15日にカンザスシティ・ロイヤルズとマイナー契約を結んだ[6]。登板機会なく、オフの11月4日にFAとなった[1]。 2020年1月10日にロイヤルズとマイナー契約で再契約したが[1]、新型コロナウイルス感染症の影響でマイナーリーグが開催中止となったため、プレーすることなく11月2日に自由契約となった[1]。この年限りで現役を引退した。 現役引退後2021年より、独立リーグ・パイオニアリーグのビリングス・マスタングスの投手コーチに就任した[7]。 その他最速150km/hオーバーのストレートが最大の武器で投球の大半を占める。変化球は、スライダー・チェンジアップを投げる[要出典]。 詳細情報年度別投手成績
年度別守備成績
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク
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