ウィリアム・ワグスタッフウィリアム・ワグスタッフ(英語: William Wagstaffe FRS FRCP、1683年/1684年 – 1725年5月5日)は、グレートブリテン王国の医師。1722年に天然痘の予防接種である種痘に反対したことで知られる[1]。 生涯カブリントンの教区牧師トマス・ワグスタッフ(Thomas Wagstaffe)の息子として、1683年/1684年にカブリントンで生まれた[2]。ノーサンプトンの学校に通った後[3]、1700年10月31日にオックスフォード大学リンカーン・カレッジに入学、1704年6月16日にB.A.の学位を、1707年5月5日にM.A.の学位を修得した[3][4]。 1707年にオックスフォードからロンドンに引っ越した[3]。ロンドンでは親族のトマス・ワグスタッフ(イングランド国教会の元聖職者で、ウィリアム3世とメアリー2世への忠誠宣誓を拒否したため聖職を解任された人物[2])が王立内科医学会から開業資格免許を取得しないまま医師業を開業しており、ウィリアム・ワグスタッフも医術に興味を持ち、トマス・ワグスタッフの娘と結婚するに至った[3]。ワグスタッフの娘がすぐに死去したため、ウィリアム・ワグスタッフは医師チャールズ・バーナードの娘と再婚した[3]。 1714年7月8日にオックスフォード大学でM.B.およびM.D.の学位を修得した後[3]、1718年3月13日に王立協会フェローに選出された[5]。同年12月22日に王立内科医学会のフェローに選出され、1720年に学会の監査官(censor、職務は開業資格免許を取得せずに開業する医師の取り締まり)に任命された[3]。1720年12月29日、ソールズベリー・ケイド(Salisbury Cade)の後任として聖バーソロミュー病院の医師(physician)に選出された[3]。 1725年3月、聖バーソロミュー病院に休暇を申請して、バースで休養したが、同年5月5日にそこで死去した[3]。 人物学究より社交を好んだため、貧乏になり、やがて気分もふさぎ込むようになったという[2]。 政治では高教会派トーリー党に属し、ヘンリー・サシェヴェレルを賞賛した[3]。 著作
出典
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