ウィリアム・マクレガー・パクストン
ウィリアム・マクレガー・パクストン(William McGregor Paxton、1869年6月22日 - 1941年5月13日)は、アメリカ合衆国の画家である。肖像画、人物画を描いた。 略歴メリーランド州のボルチモアに生まれた[1] 。1870年代なかばに家族とマサチューセッツ州のNewton Cornerに移り、父親はそこで商売を始めた[2]。 18歳になった時、パクストンはボストンの私立のカウルズ美術学校(Cowles School of Art)に入学し、デニス・ミラー・バンカーに学んだ。その後、バンカーと同じように、パリ国立高等美術学校でジャン=レオン・ジェロームのもとへ留学した.[1]。パリの私立の美術学校、アカデミー・ジュリアンでも学んだとする資料もある[3]。パリから帰国するとカウルズ美術学校で、ジョセフ・デキャンプ(1858-1923)のもとで修行を続け[2] 、デキャンプの学生だったエリザベス・オーキー(Elizabeth Okie: 1878–1972)を指導するようになり、1896年に2人は婚約し、1899年に結婚した[4][5][5]。 妻となったエリザベス・オーキー・パクストンは、夫のモデルになるとともに、画家の仕事を続け、静物画や室内画を描き、多くの展覧会に出展した。 ウィリアム・マクレガー・パクストンは1906年から1913年まで、ボストン美術館付属の美術学校で教えた[2] 。ボストンで活動し、肖像画家として評価された。1914年にフランク・ウェストン・ベンソン(1862-1951)やエドモンド・チャールズ・ターベル(1862-1938)らと「ボストン芸術家ギルド(Guild of Boston Artists)」の創立会員になった[2] 。 1941年にボストンの自宅で、妻の絵を描いている時に、心不全で亡くなった。 ウィリアム・マクレガー・パクストンはオランダの巨匠、フェルメールの作品ような雰囲気を持った人物画を描いた。 作品
参考文献
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