インドネシア連邦共和国
Republik Indonesia Serikat (インドネシア語 )
国歌 : Indonesia Raya (インドネシア語) インドネシア・ラヤ インドネシア連邦共和国の位置
インドネシア連邦共和国 (インドネシアれんぽうきょうわこく、インドネシア語 : Republik Indonesia Serikat (RIS)、オランダ語 : Verenigde Staten van Indonesië )は、かつて現在のインドネシア の領域(ニューギニア島 を除く)にあった連邦国家である。第二次世界大戦 終結後の4年間にわたって続いたインドネシア独立戦争 の結果、1949年12月27日にオランダ王国 がオランダ領東インド の主権を譲渡したことで発足し、1950年8月17日に、全ての構成国がインドネシア共和国 に合流したことで消滅した。首都はジャカルタ 、言語はインドネシア語 、通貨はルピア である。
背景
16世紀末に東南アジア島嶼部 に到達したオランダ は、20世紀までこの地を植民地(オランダ領東インド )として統治した。1942年1月、日本軍 がオランダ領東インドに侵攻し(蘭印作戦 )、オランダ植民地政府を追放した。日本の降伏が発表された2日後の1945年8月17日、スカルノ らインドネシアの民族主義者たちがインドネシアの独立を宣言 した。オランダ政府は、スカルノらインドネシアの指導者が日本による統治に協力していたと考え、インドネシアを再度統治することを決定した。しかし、ルイス・マウントバッテン 率いるイギリス軍東南アジア司令部は、オランダ軍のジャワ島 ・スマトラ島 への上陸を認めず、インドネシアの独立を事実上認めた。一方で、ボルネオ島 や大東部 (英語版 ) など、かつてのオランダ領東インドの大半を再び支配下に置いた。イギリスとオランダの交渉により、オランダ領東インド総督 代理のフベルトゥス・ファン・モーク (英語版 ) は、最終的にはインドネシア連邦として民族自決することを提案した。1946年7月、オランダはスラウェシ島でマリノ会議 を開催し、ボルネオ島とインドネシア東部の代表者は、オランダと連携したインドネシア連邦の提案を支持した。インドネシア連邦は、ジャワ、スマトラ、オランダ領ボルネオ、大東部の4つの構成国からなった。同年11月15日に結ばれたリンガジャティ協定 で、オランダはインドネシア共和国がジャワ島・マドゥラ島・スマトラ島で実効支配を行っていることを承認し、オランダ領東インドの全版図からなるインドネシア連邦共和国を設立することで合意した。オランダは1946年12月にデンパサール会議 (英語版 ) を開催して東インドネシア国 を設立し、1947年には西ボルネオにも国家を設立した。
1947年7月20日にインドネシア共和国の支配地域に対して開始したオランダの軍事行動「プロダクト作戦 (英語版 ) 」により、オランダは西ジャワと東ジャワ、スマトラ島のメダン 、パレンバン 、パダン 周辺の支配権を奪還した。国連 は停戦を求め、両者の交渉によって合意された1948年1月のレンヴィル協定 により、オランダの最前線の陣地を結んだ「ファン・モーク線」を停戦ラインとして停戦することとなった。その後、オランダは再占領した東スマトラ(1947年12月)、マドゥラと西ジャワ(1948年2月)、南スマトラ(1948年9月)、東ジャワ(1948年11月)などに傀儡国家を設立した。これらの国家の指導者により、連邦協議会 が設立された。
1948年12月18日、インドネシア共和国の壊滅を目的するオランダの第二次軍事作戦「カラス作戦 (英語版 ) 」が開始された。インドネシア共和国の首都ジョグジャカルタ などジャワ島の主要都市と、最北部のアチェ を除くスマトラ島のほぼ全土がオランダに陥落したが、東インドネシア国とパスンダン国 の内閣とジョグジャカルタのスルタン・ハメンクブウォノ9世 が、これに抗議して辞任した。また、国連安保理 も安保理決議でオランダを非難した。オランダは、主権移譲のための交渉のテーブルに就くことに合意した。1949年8月から11月にかけてハーグ で開催されたオランダ・インドネシア円卓会議 において、オランダは、西ニューギニア を除くオランダ領東インドの主権をインドネシア連邦共和国に譲渡することで合意した。これに対してインドネシアの民族主義者の多くは、オランダが連邦制にこだわっているのは、新国家を弱体化、もしくは解体するための「分割統治」戦略であると考えていた。1949年12月17日、主権はオランダからインドネシア連邦共和国に移された。
統治
インドネシア連邦共和国は、1949年に制定された憲法に基づいて統治された。
インドネシア連邦共和国には二院制の議会があった。下院に相当する国民代表協議会(Dewan Perwakilan Rakyat, DPR)は、インドネシア共和国の代表50名と、人口に応じた各国の代表合計100名からなった。上院は、人口に関係なく各構成国から2名ずつ、合計32名からなった。
内閣は、ハッタ首相を中心とする16名で構成されていた。
構成国
インドネシア連邦共和国の地図。最大の構成国であるインドネシア共和国を赤、その他の構成国をオレンジ色で示す。黄色は自治地域やその他の地域を示す。
インドネシア連邦共和国は、ジャワ島とスマトラ島の一部からなる「インドネシア共和国」を始めとする7つの国(negara )と、9つの旧直轄領(neo-land )からなる。インドネシア共和国以外は全て、オランダにより設立された傀儡国家である。
名称
設立年月日
首都
面積(km2 )
廃止年月日
備考
国
インドネシア共和国
1945年8月17日
ジョグジャカルタ
-
-
東インドネシア国
1946年12月24日
マカッサル
346,300
1950年8月17日
東スマトラ国 (英語版 )
1947年12月25日
メダン
17,500
1950年8月17日
マドゥラ国
1948年2月20日
パメカサン
5,500
1950年3月9日
パスンダン国
1948年2月25日
バンドン
35,900
1950年3月11日
南スマトラ国 (英語版 )
1948年9月2日
パレンバン
74,000
1950年3月24日
東ジャワ国 (英語版 )
1948年11月27日
スラバヤ
22,200
1950年3月9日
自治地域
西ボルネオ
1947年5月12日
ポンティアナ
146,800
1950年4月22日
東ボルネオ
1947年5月12日
サマリンダ
200,000
1950年3月24日
大ダヤク自治国 (英語版 )
1947年6月3日
バンジェルマシン
132,000
1950年4月4日
旧直轄領
バンジャル地域 (英語版 )
1948年1月14日
-
26,000
1950年4月4日
南東ボルネオ連合 (英語版 )
1947年3月
-
14,100
1950年4月4日
バンカ自治国
1947年7月
-
12,000
1950年4月4日
旧直轄領
ビリトン自治国
1947年7月
-
4,800
1950年4月4日
旧直轄領
リアウ自治国
1947年7月
-
10,800
1950年4月4日
旧直轄領
中部ジャワ自治国
1949年3月2日[ note 1]
スマラン
14,000
1950年3月9日
未定義の政治的実体
その他の地域
コタワリンギン (英語版 )
-
-
20,600
1950年4月4日
自治コミュニティ
パダン
-
-
-
1950年3月9日
自治コミュニティ
サバン
-
-
-
1950年3月9日
自治コミュニティ
ジャカルタ連邦地区
1948年6月
-
3,000
1950年3月11日
-
消滅
当初から、インドネシア人の大多数は、円卓会議で合意された連邦制に反対していた。その主な理由は、「連邦」という概念が植民地主義 と結びつくものだったからである。他にも、連邦国家にまとまりがなく、構成国が離反する可能性があったこと、インドネシア側が短期的な戦術として連邦制を受け入れただけだったことなどの理由もある。加えて、インドネシア共和国以外の地域のほとんどは、植民地自体以前からの統治者が支配しており、彼らは親オランダ的だと考えられていた。連邦制を支持していた人々も、旧宗主国による支配ではなく、インドネシア国民による選挙で選ばれた議会を通じた統治を望んでいた。オランダ当局は、「単一の国家になることはジャワ人による支配を意味する」と主張して連邦制への支持を求めたが、成功しなかった。
1950年3月から4月にかけて、東スマトラ国と東インドネシア国以外の全ての構成国・地域がインドネシア共和国に合流した。5月3日・4日・5日の3日間で東インドネシア国、東スマトラ国、インドネシア共和国による協議が行われ、残りの2か国もインドネシア共和国に合流することで合意した。5月19日、東インドネシア国、東スマトラ国を代表するインドネシア連邦共和国政府とインドネシア共和国政府は、単一国家を創設することを共同で発表した。独立宣言から5周年にあたる1950年8月17日、インドネシア連邦共和国を正式に解散し、単一国家としてのインドネシア共和国を設立した。
関連項目
脚注
情報源
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