インターナショナルF3リーグユーロ-マカオ-ジャパン チャレンジカップ インターナショナルF3リーグ(EURO-MACAU-JAPAN CHALLENGE CUP INTERNATIONAL F3 LEAGUE )は、かつて存在したフォーミュラ3 (F3) の国際レース。通称「インターF3リーグ」。1990年から1993年まで日本の富士スピードウェイで計4回開催された。 概要ヨーロッパ各国F3のヤングドライバー達が参戦するマカオグランプリから1週間後、マカオの市街地コースから富士の高速コースへと舞台を移し、全日本F3選手権の選手も交えて「F3世界一決定戦第2ラウンド[1]」を行うという趣旨のもと発足した。インターTECと同じくビクトリー・サークルクラブ (VICIC) とフジテレビが共催し、決勝の模様はフジテレビ系列で録画放送された。また、全日本F3のシリーズスポンサーである松下電器産業(パナソニック)が冠スポンサーとなった。 大会初代ウィナーのミハエル・シューマッハを始めとして、のちにF1やCARTなどのトップカテゴリで名を成すドライバーが数多く参戦した。本大会に出走したジャック・ヴィルヌーヴ、エディ・アーバイン、ミカ・サロ、リカルド・リデル、ミハエル・クルム、ペドロ・デ・ラ・ロサらはこの大会参戦を契機に日本のレーシングチームとの接点が生まれ[2]、全日本F3や全日本F3000に参戦することになる。 エントリー台数は多い時には60台以上に達し、富士名物のロングストレートを蛇行しながらスリップストリームを使い合い、コーナーでは数台が並んでブレーキング競争を仕掛けるという激しいバトルを展開した。また、トップスピードを稼ぐためにリアウィングを外すマシンが現れ、日本のレース関係者を驚かせた[3]。大会のレベルは高かったが、各国のF3トップランカーの集結といえど当時の日本ではまだ一般的な知名度がない選手が中心のラインナップ、富士の裾野で気温が冷え込む11月末開催というハンディもあって観客動員は最高でも4万人程度に留まっていたこと、バブル崩壊直後の景気の冷え込みによる大会スポンサーの減少、それに伴い運営側による欧州チームの渡航費負担が困難となるなど要因が重なり[4]、1993年の第4回大会を最後に終了した。 開催方式
大会勝者
出場した主なドライバー姓50音順。括弧内は獲得したシリーズタイトル、もしくはマカオGPやマスターズF3での優勝。その後F1経験者は(F1)と明記。
エピソード
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |