イラク・セルジューク朝イラク・セルジューク朝とは、かつて西アジアに存在した地方政権である。セルジューク朝から派生した政権であり、セルジューク朝のスルターン・ムハンマド・タパル(在位:1105年 - 1118年)の子孫が君主の地位に就いていた。イラン西部のハマダーンを本拠地としており、当時ハマダーンを中心とする西部地域は「イラーク・アジャミー(ペルシア人のイラーク)」と呼ばれており、メソポタミア地域(イラーク・アラビー)に建国されたイラク共和国の領土と王朝の支配領域は合致しない[1]。「イラク・セルジューク朝」という名称は同時代の史料で用いられておらず、近代以降の研究者が他のセルジューク朝の政権と区別するために便宜的に名付けた名称である[1]。 セルジューク朝の東西支配体制1092年にセルジューク朝のスルターン・マリク・シャーが没し、彼の子らによる後継者争いが起こり、1104年にマリク・シャーの王子の一人であるムハンマド・タパルがスルターンの地位に就いた。ムハンマド・タパルの即位後、ムハンマド・タパルがイラン西部とイラクを中心とする地域を統治し、ホラーサーンを中心とする東部地域は彼の同母弟であるアフマド・サンジャルが統治する体制が取られていた[2]。サンジャルはムハンマド・タパルを「スルターン」と呼んで彼の宗主権を認めていたが、ムハンマド・タパルの死後に体制が変容する[3]。 1118年にムハンマド・タパルが没した後、彼の長子であるマフムードがスルターンの地位を継いだが、翌年にサンジャルがイラン西部に進攻し、サーヴェの戦闘でマフムードの軍隊を破る。勝利したサンジャルはセルジューク朝の「大スルターン」としての権威と宗主権をマフムードに認めさせ、同時にマフムードと娘の婚姻を取り決めた[4][5]。1131年にマフムードは没し、サンジャルは自らの保護下にあったマフムードの弟トゥグリル(トゥグリル2世)のスルターン即位を支持し、それに反対したトゥグリルの兄弟マスウードを破った。トゥグリルは即位から1年あまりで急逝し、サンジャルはやむなくマスウードの即位を認めた[6]。 大セルジューク朝崩壊後のアタベクの台頭1152年にマスウードが没した後、マフムードの子であるムハンマド(ムハンマド2世)とマリク・シャー(マリク・シャー2世)、ムハンマド・タパルの子であるスライマーン・シャーがスルターン位の継承を主張して争った。1160年3月までにムハンマドとマリク・シャーが亡くなり、最後に残ったスライマーン・シャーがスルターンの地位に就いたが、トゥグリル2世の遺児アルスラーン・シャーのアタベク(後見人)であるイルデニズがスライマーン・シャーに挑戦した[7]。 1161年にスライマーン・シャーが暗殺された後、イルデニズは20,000の兵士を率いてハマダーンに進軍し、他のアタベクたちの支持を得てアルスラーン・シャーをスルターンに擁立した[8]。イルデニズは「アタベク・アル=アザーム(至上のアタベク)」としてアルスラーン・シャーの後見人となり[8]、アルスラーン・シャーはムハンマド2世の未亡人であるケルマーン・セルジューク朝の王女ハトゥン・イ・キルマーニーと結婚した。アルスラーン・シャーは名目上のスルターンでしかなく、イルデニズがセルジューク朝の軍事、財政、イクターの授与の権限を司っていた[9]。 イルデニズと彼の妻でトゥグリル2世の未亡人であるムゥミナ・ハトゥンはアゼルバイジャンを本拠地とし(イルデニズ朝)、セルジューク朝の実権を掌握していたが、1175年にイルデニズとムゥミナ・ハトゥンが相次いで亡くなった[10]。イルデニズの死後、彼の子でアルスラーン・シャーの異父兄弟であるジャハーン・パフラヴァーンが父の地位を継承し、アルスラーン・シャーは実権を取り戻すためにジャハーン・パフラヴァーン討伐の兵を挙げるが、進軍中に急死する[11]。7歳になるアルスラーン・シャーの王子トゥグリル3世が新たなスルターンに擁立され、アルスラーン・シャーの兄ムハンマドがスルターン位の簒奪を企てたが、ジャハーン・パフラヴァーンによってムハンマドの計画は阻止された[12][13]。トゥグリル3世の即位後、ジャハーン・パフラヴァーンはセルジューク朝の事実上の支配者となり、1185年に東進を試みたエジプトのアイユーブ朝の軍勢を撃退した[14]。 トゥグリル3世とイルデニズ朝の抗争1186年にジャハーン・パフラヴァーンが没し[12]、キジル・アルスラーンがイルデニズ朝の君主となるが、ジャハーン・パフラヴァーンの妻であるイナンチ・ハトゥンがキジル・アルスラーンに反乱を起こし、トゥグリル3世はイナンチ・ハトゥンの陣営に加わってキジル・アルスラーンに敵対した[15]。1186年にはケルマーン・セルジューク朝のムハンマド2世がオグズの反乱によってケルマーンを追われる事件が起きているが、トゥグリル3世とキジル・アルスラーンは両者とも内紛に忙殺され、ムハンマド2世を支援する余裕はなかったと思われる[16]。 トゥグリル3世の軍はジル・アルスラーンをハマダーンから追放し[17]、1188年にはアッバース朝が派遣したキジル・アルスラーンへの援軍を撃破する[18]。しかし、セルジューク朝の王子サンジャル・ブン・スレイマーン・シャーをスルターンに擁立したキジル・アルスラーンはアッバース朝の援軍と共にハマダーンに進攻し、トゥグリル3世はエスファハーンに逃走した[18]次いでオルーミーイェに退却した。[15]1190年にキジル・アルスラーンはアゼルバイジャンに侵入したトゥグリル3世を破り、投獄した[19]。キジル・アルスラーンはカリフ・アル=ナースィルに勧められて自らがセルジューク朝のスルターンとなり、イナンチ・ハトゥンと結婚したが、1191年9月にイナンチ・ハトゥンによって毒殺された[19]。 キジル・アルスラーンの死後にトゥグリル3世は解放され[20]、1192年6月22日にガズヴィーン近郊でイルデニズ朝の軍隊を撃破した[20]。ジャハーン・パフラヴァーンの地位を継いだクトルグ・イナンチはホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・テキシュに援助を求めるが、テキシュはクトルグ・イナンチの拠点であるレイを占領した[20]。トゥグリル3世はホラズム・シャー朝と和平を締結し[20]、ヤズドのアタベク王朝と、ファールス地方のサルグル朝を支配下に置くが、両王朝の臣従の誓いは形式的なものに過ぎなかった[21]。1193年3月にトゥグリル3世はレイをホラズム軍から奪回し[20]、クトルグ・イナンチとアル=ナースィルはテキシュにトゥグリル3世の攻撃を要請する[20]。 王朝の滅亡1194年にトゥグリル3世は東方に遠征してクトルグ・イナンチの軍隊を破り[22]、さらにレイに向かって進軍した。1194年3月19日にレイでトゥグリル3世とホラズム軍は交戦するがトゥグリル3世は捕虜となり、斬首された[23]。シャー・アラーウッディーン・テキシュはトゥグリルの首をカリフ・アル=ナースィルに送り、彼は首を宮殿前のNubi門に晒し、胴体はレイで吊るし上げられた。大セルジューク朝、イラク・セルジューク朝の領土とそれらの王朝の「スルターン」を称する人物は消滅し[24]、イラク・セルジューク朝の領土はホラズム・シャー朝に編入された[25]。 文化11世紀のマリク・シャーの時代からセルジューク朝の宮廷ではペルシア語の文芸活動が振興され、サンジャルの宮廷やムハンマド・タパル一族の宮廷でもペルシア文芸は発達した[26]。トゥグリル3世の時代には多くの詩集や史書『セルジューク朝史』が編纂され、各地の有力者の庇護を受けた詩人ニザーミーは叙事詩『ホスローとシーリーン』をトゥグリル3世に献呈した[27]。 歴代スルタン
系図
脚注
参考文献
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